筒井康隆 恐怖 目 次  嫣然たる微笑の意味は  もしここに人が来たら  領収書が大切なのです  三人の刑事が転倒する  別れた妻と背中あわせ  限られている新聞紙面  もと伴侶をどう呼ぶか  オカルト的な自己完結  文化人皆殺しの可能性  無関係という関係が鍵  薔薇を手折る三人の娘  刑事が手帳に書き込む  豪雨と雷鳴の中の恐怖  絞り込まれた三十五人  脳障害の刑事との対話  この町は発狂している  美都ちゃん人形の視線  深夜の客の野卑な大声  君は何を顫えているか  思いがけぬ乙女の来訪  ハイデガー恐れの分類  危機は突然やってくる  先生あなたは病気です  書道家は幽霊に怯える  恐怖こそ根源的な本能  犯人の一人が告白する  もう一人の犯人の告白  姥坂市からは脱出不能  その後誰がどうしたか  嫣然たる微笑の意味は  世田谷区成城や鎌倉市ほどではないが、姥坂市にも文化人は多い。ただし全国区とでも言うべきか、一応日本全体に名を知られた人物はその四分の一ほどで、あとは地方区文化人つまり生花や踊りの師匠ピアノの先生建築設計士といったこの姥坂市だけを生計の基盤にしている人たちである。  こうした人たちが住む準高級住宅地の白昼は静かであり、道路に人は通らず車の往来も滅多にない。時おりかすかに聞こえてくるのはテレビの声ピアノの音、たまにほのかに匂ってくるのは花の香り生ゴミの臭気木から落ちて腐爛した果実の臭いなどである。料理の匂いはあまりしてこない。  あぶら気はないがそれなりに格好よく乱れた頭髪、黒のセーターに茶色のブレザー薄茶のズボン、どこでも間にあう黒の短靴といういつもの身装《みな》りで、年齢よりずいぶん若く見える作家の村田勘市は、姥坂駅構内のアーケード街で買ったパルメザン・チーズとアンチョビとエキストラ・バージンオイルの入った紙袋を提げ、自宅へ戻ろうとして町田美都の邸宅の前までやってきた。帯鉄の唐草模様が入った丈の低い鉄の門が、わずかに開いていた。おやおや用心深い美都画伯には珍しいことだ何やら慌てていて掛け金をかけ忘れたかなどと思いながら前栽《せんざい》の彼方の大正風西洋館を眺めると、玄関の両開きドアの片方がやはり十|糎《センチ》ほど開いている。閑静で金持ち宅が多いことから最近はこの辺りにもアジア系外国人の強盗団が白昼出没していて、だから姥坂市警察署も住民に注意を呼びかけている。女ひとり暮らしの町田美都がそれを知らぬ筈がないので、よほど慌てて家に駈けこみ、そのまま戸締りを忘れているのであろう、注意しといてやろう、そう思い、村田は門柱のドアホンを押してから門を押し開けて前栽に入った。本心は美人と言えなくもない町田美都と久しぶりに対面して世間話でほんの数分の時間つぶしをしようという気もあったし、うまくすればコーヒーの一杯くらいはご馳走に与《あず》かることができるかもしれないという気もあった。さらにうまくすれば無駄話の延長でH系の冗談など言いあっているうちどちらもちょいその気になって手を握るなどの戯れができるかもしれないではないか。  町田美都とはさほど親しい間柄ではないが姥坂市在住文化人の寄りあいやパーティではいつも顔を合わせていて、市内で出会えばいつもお互い笑顔で会釈する仲である。またこの市の文化人たちは何やかやと世話を焼きあう慣習があり、顔見知りでさえあればお節介も無礼ではなく、そしてたいていの文化人同士は顔見知りなのだ。この恩恵に与かっているのは女性文化人たちであって、市内どこのレストランや喫茶店へ入っても必ず誰かがいてちやほやしてくれサービスしてくれるので多少セクハラまがいの過剰奉仕も、だから許されることになっているようなのだ。  さらに町田美都は全国的に知られた閨秀《けいしゆう》画家であり、村田自身もさほど著名ではないものの一応文学者としては全国区とも言える作家であって、画伯の知名度に比しさほどの遜色はない。ちょいとした注意をしてやるくらいのことに遠慮も気兼ねもひけ目も不要の筈であった。  前栽の中央、約三|米《メートル》の石畳を両側の植込みの枝葉にズボンを撫でられながら進んで村田勘市は玄関に達し、木製のドアを押して土間に入った。もちろん町田画伯の自宅に入るのは初めてである。半坪ほどの広いタイルの土間からは一尺あがってひと坪ほどの広い玄関の板の間、その奥は片側が階段、片側の廊下の奥はアトリエらしく明るいガラス戸になっている。そのアトリエの手前のこの板の間には、画業に関する来客を待たせることもあるのか背もたれのついた古風な木製の椅子が三脚壁際に置かれている。そのいちばん手前の椅子に、やや小柄で肉感的、頬のふっくらした色白の町田美都が腰掛けて、入ってきた村田に嫣然《えんぜん》と微笑《ほほえ》みかけていた。 「あっ。臭いものに蓋、じゃなかった。えっと。白昼の強盗団という者が」不意をくらってどぎまぎし、村田はわけのわからぬことを口走った。「いやあの、不用心かと」  彼女は自分が入ってくることをドアホンで知り、ここで待っていたのだろうか。奥にいたとしたらえらい早業だ。どうやらおれを驚かせようとしたらしいな。「あはは」と、村田は笑った。「人が悪いなあ」  彼女は微笑したままだった。眼を大きく見開いて、逆に彼女の方こそ何かに驚いているように見える笑みでもあった。もしかして、彼女が以前から憎からず思っていた村田が突然入ってきたことに驚いているのか。あるいはそんな笑い方は彼女独特の笑い方であって、実は恋する村田を自宅に誘い込もうという計略を立て、彼が買物から戻る時を見はからってわざと門や玄関を半開きにしておいたのだろうか。そうとでも考えなければ理解できない彼女の嫣然たる微笑みであった。  町田美都があまりいつまでも微笑したままなので村田は不機嫌になった。何を気取っているのかと思い、もったいぶるなと反撥《はんぱつ》しながら彼女を見つめ返した。そしてやっと、彼女がさっきから一度もまばたきをしていないことに気づいた。美都画伯は仕事着とは思えない紺と白と赤の花柄のロングドレスを着ていた。今までその首に巻かれているネッカチーフと見えていたものが、実はただの赤い紐であることにも村田は気づいた。  首を絞められて殺されているのだと村田は悟った。嫣然たる微笑みに見えたのは苦痛と恨みの表情であり、見開かれた眼は死を目前にした驚愕の眼差しであり、口もとの笑みは叫ぼうとして叫べなかった名残りだった。村田は彼女の顔から眼を離すことができなくなった。それほどもの凄い死に顔だった。その顔を見てすぐに死んでいることがわかれば、わっと叫んで眼をそらすこともできたであろう。だが、最初は嫣然たる微笑とのみ思い、やがて徐徐に死んでいること、そして殺されていることがわかってきただけに、眼をそらすきっかけを失い、またその死に顔の凄絶さたるや、蠱惑《こわく》的な笑いに似ているため尚さら無意識の奥にまで届いてへばりつく禍《まが》まがしさがあり、それもまた、ただでさえ臆病な村田の視線の自由を完全に奪ってしまった理由でもあったのだ。  もしここに人が来たら  村田はゆっくりと土間に尻をおろした。腰を抜かしたためだ。腰を抜かすというのは強《あなが》ち恐怖のためだけではなく、それに加えて自分がそれに対して大急ぎで何事かなさねばならない、例えば逃げねばならないとか、誰かに急いで報告しなければならないとかいった切迫感による緊張があり、それは現在の、恐怖にすくんでいる自分には手にあまるとか、能力の限界を越えているとか、負担が大きすぎるという自覚によって起る挫折の肉体的表現だ。そして村田はまだ町田美都の死に顔から眼を離せないままだった。つまり村田の場合は、最初のうちただ彼女の死に顔による呪縛から逃れたいという焦りから腰が抜けただけだったのだ。 「その、チェシャ猫みたいに笑っている口がいけないのね」村田勘市は何かを食べているように口を動かしてくぐもった声を出した。「そしてその、チロリと舌が見えているのもね」  死んでいることがしばらくわからなかったということは、と、村田は考えた。まるで生きているように見えたからだ。と、いうことは、つまり顔色が死者の顔色ではなかったということであり、それが何を意味するかというと、町田美都が生きていようが死んでいようが常に同じ顔色に見えるくらいの厚化粧をしているということを意味しているのだ。だが、そんなことがわかってもしかたがないことである。 「しかたがないっ」  自分を叱咤《しつた》するようにそう言って、村田は立とうとした。だが、立てないことを知り、ここで初めて村田は腰が抜けていることを自覚し、瞬時にして腰が抜けたことに関する前記の考察をしたわけである。次いでまず、少しだけでも足を動かしてみようとした。折っていた足を片方、土間の上で伸ばそうとしたが、膝が激しく顫《ふる》えてなかなか伸びない。死者の顔に眼を向けたままでいるためだろうと思ったが、視線をひっぺがすことはできなかった。やがて瞬発力とともに片足がどん、と伸び、女もののハイヒールを跳ねとばした。その自分の格好を第三者の眼で想像して、思わずケケケ、と笑ってしまうだけの知性はまだ残っていた。  焦るな、と、村田は考えた。何か焦る理由でもあるのか。何もないではないか。いや。あるのだ。村田はぞっとした。犯人が邸内にまだ潜んでいるかもしれない。物取りとすれば金目のものを物色し続けているさなかかもしれぬ。では逃げなければならないだろう。しかし玄関のドアや門が開いていたのは犯人が大急ぎで逃げたからではないのか。そう。冷静に判断すれば、犯人はもう邸内にはいない筈だ。いたとしても自分が押したドアホンの音で裏庭に逃げた筈なのだ。そうなのだ。なぜそんなことで焦るのだ。  それよりも大事なことがあった。自分がおそらく死体の第一発見者になるのだろうが、第一発見者というのは第一の容疑者にもなるのだ。しかもおれはまだ殺人事件が出来《しゆつたい》したという通報をどこにもしていない。通報していない以上自分はまだ第一発見者ではなく、単なる容疑者のひとりなのだ。早く警察に通報すべきであり、少なくとも誰かにこのことを教えねばならない。なぜなら、もし今誰かがここへやってきたら、ここにいるのは被害者とおれだけであり、殺害現場で絞殺死体と一緒に長いことじっとしていた人間が犯人に疑われるのは当然のことではないか。そうだったのか。それを恐れて自分は焦り、腰を抜かすべきでない局面で腰を抜かしたわけだ。理屈にはあっている。  人が来ぬうちに、なんとかこの場から離れなければならない。村田はまだ尻の下に敷いたままのもう片足を、手を使って引っぱり出し、伸ばそうとした。膝に力を入れ、片手は紙袋の紐を握りしめたままもう片方の手で土間の片側の下駄箱の表面にがりがり爪を立ててどうにかよろめき立った。戸外へ向きを変えようとしてまたよろめき、歩きだそうとしたものの膝が笑っていて、こまかい上下の屈伸をくり返すばかりだ。尻を前後に振って勢いづかせようとするものの、最初の一歩が踏み出せない。 「歩くということがこんなに難しいとは」  そんなことを呟きながら、村田はロボットに人間の歩き方を教える難しさを説いた誰かの文章を思い出した。まず前に倒れる、そして片足でそれを支えるようにして順次前進させるしかない、と書かれていたのだ。村田は前に倒れることにした。  ばん、と、ドアの横の壁に激突し、顔面を強打した。その痛みで肉体の緊張がやや解けた。彼は前栽に出た。だが足はまっすぐに伸びたままで屈曲してくれない。勢いづいたままの方向にしか進めず、石畳の上を真っすぐ歩くことは困難だった。彼は石畳を出はずれて、ばさばさばさ、とツツジの植込みを突破し、槙の木の幹に衝突した。紙袋が幹に当ってガラス瓶の割れる音がした。  アンチョビもバージンオイルもガラス瓶に入っている。そのどちらかが割れたようだ。あるいは両方か。そんなことをぼんやり思いながら村田はしばらく槙の木に抱きついてじっとしていた。頭を強く打ち、少しめまいがしたのだった。やがて彼はかぶりを振り、気を取りなおすことにした。 「よし。気を取りなおしたぞ」決然と、彼はうなずいた。「行こうか。うん」  歩き出そうとしてまたつんのめり、倒れそうになったままふたたび植込みを蹴散らして彼は門に達した。鉄の門にしがみつき、しばらくじっとしていた。道路へ踏み出せば転倒するに違いなかった。しばらくこのままでいるしかないのかと、情けない思いで村田は自分の小心さを恨んだ。作品の中では自己を投影した人物に危機に際しての非凡な蛮勇を与えてもいるのだ。なのに異常事態に対処する能力が完璧に、かくも自分から欠落していたとは。  遠くの道路から車の警笛が二度聞こえてきた。近くの家のテレビからお笑い番組の爆笑が聞こえてきた。そしてまた静かになった。  道路の右手、彼がやってきたのとは反対の方角から、堅く軽い靴音が聞こえてきた。誰か来るぞ、女のようだと思い、せめてそれが顔見知りであってくれることを村田は祈った。たとえ顔見知りであったとしても、自分がなぜ閨秀画家町田美都が絞殺されている殺人現場の家の門に呑気そうにもたれ、のんびりとあたりを眺めまわしていたのかという説明は極めてむずかしい。  足音がとまった。  領収書が大切なのです  やってきたのは近所の主婦と思える女性だった。片手に黒いビニールの手提げ袋を持っただけの普段着姿から、買物に出かけるところだろうと思えた。やや小肥《こぶと》りで美人といえなくもない彼女は立ち止まり、自分をじっと見つめている村田勘市を不審そうに見つめ返した。 「あら。先生」  村田を見知っているようだった。そういえば彼女を見かけたことが何度かあることを村田も思い出した。それはおそらく文化人のパーティとか姥坂市主催の集りとかであったのだろう。だが彼女自身が文化人なのではない筈だった。この市の女性文化人のたいていを村田は知っているからだ。夫について集りなどに出てくることの多い、近くに住む文化人の誰かの妻ででもあるのだろう、と、彼は思った。  売れっ子の作家ではないからあまり多くの人に知られてはいず、姥坂市内でも村田を知らぬ人は多い。自分を見知る人であって幸いだった。この幸運を逃すことなく、今の状況を早く、簡潔明瞭に、手際よく彼女に話さなければならない。眼を大きく見開いて彼女を凝視したままそう思い、村田はまた焦った。  ことばが出てこなかった。くうくう咽喉《のど》が鳴るだけで、言うべきことば、出すべき音声のどちらもが失われていた。早く何か言わねばという思いのみが頭を占め、何をどう言えばいいのかがわからなかった。  だが少なくとも村田の様子がやや異様であることだけには気づいてくれたらしく、彼女は近寄ってきて村田の顔を覗きこんだ。「転んだんですか」  額から血がでているらしい。村田はどうにか笑顔を作って頷き、すぐに、笑顔を作って頷いている状況ではないだろうにと自分を叱った。  うるんだ眼を大きく見開いてうす笑いを浮かべ、額から血を出したまま無言で自分を見つめ続ける作家の村田勘市に、彼女は当然ながら薄気味悪さを感じた筈だった。だが奇態な振舞い、非日常的な言動が文化人特有のものであることも彼女は知っていたようだ。 「ま、お大事にね」  ことばを返さぬ無礼さに対して彼女はよそよそしくそう捨てぜりふを吐き、駅の方向へ歩み去ろうとした。  彼女を行かせてはならない。村田は心でそう叫んだ。被害者の死亡推定時刻に自分がその門前に立ち、額から血を出して途方に暮れていたことや、虚脱した笑みを浮かべていたことや、茫然自失していてまともに返事もできなかったことを彼女が証言すれば、もはや自分は犯人に限りなく近い最重要参考人である。何か言って彼女を引き留めなければ。声を出す勇気を神様。この弱虫め。おれはヒーローなのだぞ。 「シルベスタ・スタローン」と、村田は大声で叫んだ。  ぎく、として主婦は立ち止まり、振り返った。村田が何を言ったかわかった筈なのに彼女は、当然のことだが村田がそう叫んだ意図がわからなかったのだ。ふたたび門の鉄柵の前まで戻ってきて、彼女は訊ねた。「おなかが痛いんですか」  なぜだ、と、思い、村田は激しくかぶりを振った。突然、言うべきことを思いついて彼は喋りはじめた。何をいちばん先に言うべきかまでは考えつかなかった。とにかく言うべきことを順不同で言うしかなかった。 「アーケード街で買物をしたんですが、その領収書が、買ったものと一緒にこの紙袋の中に入っています。あの、これはたいへん重要なことでして、これは重要書類です。あなたはぼくが気が狂っているのではないかと今一瞬思われたようだけど別に変なことではないんですよ。その領収書には買物をした日付と時間が打ち込まれていますからね」 「そうですわよね」主婦は村田に逆らわぬよう大きく頷いて見せた。「なんで時間まで、と、思いますわよねえ。ほほ」 「ええ。あっ。でもそれは重要なことなんです。なぜかというと、その打ち込まれた時間がぼくを犯人ではないと証明してくれるからです。少なくとも死亡推定時間及びその前後に、ぼくが買物をしていたことが証明されるからです」 「え。あの、死亡って、誰が亡くなったんですか」 「このお宅の、町田美都さんです」 「あらいやだわ先生。町田先生なら生きてます」親しい間柄らしく、最近、おそらくは昨日か今朝、元気な彼女と会っているようだった。 「いいえ。誰かに首を絞められて、今玄関の間で笑ってます。いや。もとえ。死んでいます」 「嘘っ」ちょっと身をのけぞらせてから、彼女はこころもち背を丸め、ドアが開いたままの玄関の奥を覗き込むようにしてから石畳の上を駈け出した。  村田はそれに続いた。もうからだは普通に動いて、彼にはそれが神の恩寵であるかのように有難かった。主婦は町田美都であった死体を見て玄関の土間で瞬時凍りついた。のけぞり、両手を顫わせた。それから靴を脱いで板の間にあがった。 「まあっ。お可哀想に」  そう叫び、彼女は手提げ袋を投げ出して死者の首に巻きついている紐をとろうとした。細い紐は食いこんでいて、取るのが困難なようだった。村田はその様子を土間に立って茫然と見ていた。 「そういうことは、しない方が」と、本来なら彼女に注意すべきだったのだろうが、「お可哀想に」という彼女のことばにその時は共感していたのだ。それ以外にもこのあと、ふたりは殺害現場に多くの指紋をつけまくるなど保存状態を悪くしたとして警察の取調べでは大目玉をくらうことになる。  やっと紐を取った主婦は、座ったままの死体の着衣の乱れを整えてやったり死体の周囲の板の間をちょっとうろうろしたりしながら「ええと、警察、警察」と呟き、階段の手前のドアを開けて中に入っていった。この家には何度も来ている様子で、電話のある場所も知っているようだった。彼女はもう村田の方など見向きもせず、警察に電話したかどうかを彼に確かめることもしなかった。村田を見て、とても落ちついて警察に通報できるような人間ではないと判断したためだったろう。 「うん。その判断はまったく正しいわ」自嘲的にそう言いながら、紙袋を玄関の間の上り框《がまち》に置き、靴を脱いで、村田は主婦のあとから書斎と思えるたたずまいのその部屋に入って行った。  三人の刑事が転倒する  その明るい部屋は入ったところにソファや小さなテーブルがあり、奥の方に事務用の机があった。机は裏庭に面したガラス戸に向けて置かれていて、電話はその上にあった。ソファのうしろを走って部屋を横切った主婦が立ったままで受話器をとり、警察と話しはじめた。 「警察ですか。私は市の文化振興委員会の、真木継雄の家内です。加寿子と申します。いつもお世話になっております。はい。それでですね、こうしてお電話をしているのは。えっ。はいはい。そうです。事件です。いいえうちじゃありません。首を絞めて殺されているんですが。いえいえ主人ではありません。わたしの家は隈名四丁目六の三十七にあるんですが。いえ。ここではありません。ですからうちの者じゃないんです。いえ。わたしは妻です。違います。いえ。そうじゃないんです。ここの場所はですね、わたしの家から四軒坂下の。いえ。ですからわたしの家は隈名四丁目」  市の文化人担当世話役とでも言うべき真木継雄なら知っていたし、その妻の名が加寿子であることも、いつも和服を着て姥坂市の文化関係の集りの世話をしている彼女の姿とともに村田は思い出した。  彼女の電話による通報には、だいぶ時間がかかりそうだった。普段事務的な電話連絡をしていない人だから報告が要領を得ないのかというと、どうやらそうとばかりは言えないようだった。彼女もやはり、狼狽していた。相手の警察官は苛立っているようで、それが尚さら彼女をうろたえさせているに違いなかった。だが、村田自身が電話したとすればもっと混乱した話しかたをして相手をもっと苛立たせていた筈だ。  村田はガラス戸の外に眼を向けた。庭師がきちんと手入れした庭ではなく、それが町田美都の好みだったのか、むしろ自然のまま、雑然たる木や草花の繁茂にまかせている庭だった。手を引手にかけると、鍵はかかっていず、ガラス戸は開いた。犯人がここから逃げた痕跡はないかと、村田は地面を見た。柔らかそうな地面に足跡はなかった。ドアホンで逃げたのだとすると、ガラス戸は開かれたままの筈だった。右手にはアトリエらしい部屋の大きな窓があった。 「あっ。あなた、ぼくのことを言いませんでしたね」報告し終えた真木加寿子が受話器を置いたので、村田はびっくりして大声を出した。「あれじゃ第一発見者があなたのようになってしまう」  加寿子も自分の失敗に驚いて眼を丸くし、村田を見つめた。「どうしましょう」 「警察に報告されなかったのを幸い、鬱陶《うつとう》しい取調べを避けてぼくがこの場から逃げたりしたら、あとで筆頭容疑者にされることはわかっています」と、村田は言った。「ここにいるしかないでしょう」 「すみません。すみません。あの、お茶でも淹《い》れましょうか」お茶を淹れることが詫びることになると思っているような口調で加寿子は言い、また廊下に出た。 「この家にお詳しいんですね」そう言いながら彼女に続いて書斎を出ようとした村田は、また椅子に掛けて笑っている死体とまともに対面してしまい、「あ」と呟いて腰をぐらつかせた。 「お気の毒。本当はどこかに寝かせてあげたいんだけど。でもそんなことすると、捜査を混乱させてしまいますわね」加寿子は眼をうるませて死体に手を合わせてから、廊下の反対側の板戸を開けた。  そのことばで、もうすでに現場をだいぶ荒してしまったことに村田は気づき、自分たちがさらに荒そうとしていることに加寿子がまだ気づいていないことにも気づいた。「あなたさっき、町田さんの首から、紐、取りましたよね」 「はい。これでしょ」加寿子が上着のポケットから紐を出した。 「これは、もとに戻しておいた方がいいように思うが」そう言いながら紐を受け取った村田は、両端に金具のついたその赤い紐をいじりまわしながらつくづくと観察した。「ははあ。これはループ・タイの紐だな」 「ああ。よくお爺さんのしているタイね」  その部屋はリビング・キッチンで、四人掛けの食卓があり、調理場は西側の窓に面していた。奥はアトリエに通じているらしい板戸だった。  加寿子は慣れた様子で茶の用意をしはじめた。「何度もお邪魔してますのよここには。美都先生がご病気になられた時なんか、ずっとお世話していましたから。ああ。美都先生が殺されて死んじゃうなんて。あっ。こんなにものを触っちゃいけないかしら。でも警察の人が来たら、どうせお茶出さなきゃいけないし」 「誰が殺したと思いますか」のどが渇いていたので食卓に向かって掛け、加寿子が淹れてくれる茶を待ちながら村田は訊ねた。 「その紐の持ち主じゃないかしら」  あたり前だ、と村田は思ったがすぐ、町田美都はループ・タイなどしなかったという意味だと知り、ゆっくり頷いた。 「女性のヌードをお描きになるので男性には興味がないと思っていた人もいるようですけど、美都先生は決して決してそんなことはなくて。はいお茶。熱いですよ」  食卓で向きあってしばらく無言のまま、ふたりは茶を飲んだ。加寿子がポケットからうす茶色のハンカチを出してすすり泣きはじめた。村田が泣かない自分に罪を感じはじめた時、最初のパトカーが門前に到着した。村田と加寿子は玄関の間に出た。  警察官たちは冷静であろうとしながらも興奮していることがあきらかだった。被害者の前に立っている村田を見るなり、眼を吊りあげてひとりが叫んだ。「誰だあんたは」 「わたしは」  村田が答えようとした時、その刑事は上り框で勢いよく足を滑らせ、土間へ仰向けに転倒した。敷石に後頭部をひどく打ちつけたらしくて、彼は眼をまわしてしまった。大騒ぎになった。  村田が上り框に置いた紙袋の中の、アンチョビとエキストラ・バージンオイルの瓶が割れ、油が板の間に洩れ出ていたのだった。この油は警官のひとりが自分のティッシュ・ペーパーで床から拭きとって以後も、さらに次つぎとやってきた市警、県警の刑事たちふたりを転倒させたのだった。こうしたこともまた、村田が真木加寿子とともに現場と警察で長時間にわたる苛酷な取調べを受けた理由のひとつであったに違いない。  別れた妻と背中あわせ  村田勘市の家は町田美都の邸宅から三ブロック坂上の西洋館で、結婚当時安い価格で買った時すでに築三十年だった。妻が出て行ってから村田はずっと、この古い家にひとりで住んでいる。  スパゲティを作るつもりで買物に出たのだったが、アンチョビもバージンオイルも瓶が割れて失われ、アンチョビの臭気立ち籠める現場で二時間、警察に連れて行かれて四時間もの事情聴取から解放され、家に戻ったのは午後の十時であり、村田は面やつれするほど疲労|困憊《こんぱい》していた。警察ではコンビニの弁当でも取ろうかと訊ねられたが、その時は食欲がまったくなかったのだ。ウィスキーを飲みながら買い置きのベーコンとカマボコと飯の残りで夕食を終え、ベッドに入ったものの、町田美都の物凄い死に顔を思い出して村田は眠れなくなった。  怖かったなあ。あの顔の凄さはどう表現しても見ていない者には伝わるまい。驚いた顔をしていたから、犯人は顔見知りの者だろうか。警察では何かが盗まれた様子はないと聞かされたが、怨恨だろうか。刑事には彼女の交友関係などを訊かれたものの、つきあいがほとんどないから知るわけがないのだ。真木加寿子はきっと彼女と親しかった者の名を思いつく限り並べ立てたに違いない。そんな想像はするものの、別室で行われた真木加寿子の事情聴取がどんな様子だったのか村田にはわからない。  今ごろ当市在住文化人やその周辺の連中があの酒場あのレストランに三三五五集って事件の話をしていることだろう。犯人を特定するための議論などは聞きたいが、今頃からそんなところへ出かけて行って逆に質問責めにあうのはまっぴらだ。とは言え彼らの推理した犯人像などは是非知りたいから、明日の朝はモーニング・サービスをやっている喫茶店をまわって誰かを見つけることにしよう。それがよいそれがよいと心に決めて村田は眠りに落ちた。  翌朝刊で大きく報じられている事件の記事に村田のことは、「近くに住む作家の村田勘市さん」が第一発見者であるとだけ書かれていた。今のところ容疑のかかる人物はいないようだった。死亡推定時刻は発見時の二時間前とされていた。その時刻、村田はマーケット内の本屋で立読みをしていた筈だ。  九時半、村田は汚れたズボンだけをはき替え、昨日と同じセーターとブレザーを着て家を出た。町田邸の前を通るコースは避けて駅前の繁華街に出ると、知人を捜して喫茶店を順にまわった。「誰か来てるかい」と訊ねると、たいていの店員は顔見知りなので「あっ先生。昨日は大変でしたね」と話しかけてくる。渋面を作って頷きながら、誰も来ていないと知るとその店を出る。美術評論家の望月源之輔を見つけたのは五軒めの「ムル」という店だった。彼はモーニング・セットをとり新聞を読んでいた。向かいの席に掛けながら「早いね」と声をかけると望月はコーヒーにむせた。  望月は村田と対照的に髪をリキッドで撫でつけ、いつもきちんと濃紺のスーツを着ている。目の下のたるみを隠すための黒縁の眼鏡は色白の顔によく似合っていた。 「昨日までは市長のセクハラ疑惑」ひとしきり咳き込んでから彼は言った。「今日は殺人事件。ここのところ社会面を賑わしているのはわが姥坂市ばかりだ。ところで君のうしろの席に瑠美子さんがいるよ」  村田はそっと背後の席を間仕切り越しに窺《うかが》った。離婚した妻の瑠美子が友人の宮本はるかと話していて、テーブルに身を乗り出している彼女の背中と短い髪が見えた。瑠美子は村田の眼には極めて懐かしいベージュのセーターを着ていた。はるかは村田の方を向いていたが話に夢中で、村田に気づいた様子はない。  離婚した原因を村田は他人に性格の不一致と説明しているが、異った人間の性格が不一致なのは当然であり、結局はふたりの我儘《わがまま》が衝突したのである。瑠美子は以前から親しかった、姥坂市に住む地域文化人のひとり、建築家の串田左近と結婚した。彼は優しいので女性に人気があった。だが結婚した頃から仕事がうまくいかなくなり、建築の依頼が減った。他方村田の方は離婚してから作品が評判になったりもして少し売れはじめ、羽振りがよくなった。もともと本質的にそうだったのか串田は内弁慶になり、瑠美子に暴力をふるったりもしはじめたらしく、時おり町で見かける瑠美子が目の下に痣《あざ》を作っていたこともある。村田はざま見ろと思うだけで、そんな彼女に声をかけることはない。最近瑠美子は村田に出会うと何か話しかけたそうな様子を見せるが、意地というものがあるので村田は頑として知らん顔を続けている。 「腰を抜かしていたんだって」美しくなくもない宮本はるかが、笑いながらそう言っている。  おれのことだ、と、瞬時に村田は思う。真木加寿子が言い触らしたに違いなかった。 「どうせおれの噂で、盛りあがったんだろうな昨夜は」村田は望月に訊ねた。 「そうでしょうね。あの人、臆病だもの」瑠美子も笑いながらそう言っている。 「姥坂ホテルのスカイ・レストランには四、五人集っていたな」極度の近眼の眼を、望月は眼鏡の奥でまたたかせた。「おれは知らないで行ってびっくりした。いいや君の名は出なかったな」 「ねえ。村田先生は町田先生と何かあったのかしら」 「美術評論家なら、何か知ってるだろう。町田美都の男関係」 「あるわけないでしょう」瑠美子がまた笑っている。「町田さんが相手にしないわよ」 「彼女はおれの知る限り真面目だったよ」 「ああら。そんなことないでしょう。妬《や》かせるつもりはないけど、母性愛を靴の上からくすぐるようなとこ、あるじゃないの」宮本はるかがズれた表現をした。 「じゃ、レズかい。独身で、男出入りがまったくなかったの」 「あの人はタイプじゃないの」瑠美子が言い切った。 「彼女の好みのタイプは、金持ちで、金離れのいい男だ。女性のヌードも描くことがあるからレズなんて噂もあったけど、その気はまったくない」  その時、可愛く見えなくもない馴染みのウエイトレスが注文をとりにやってきて、大声で言った。「ああら。村田先生。新聞読んだわ。昨日はびっくりしたでしょう」  限られている新聞紙面  その声で背後の会話がぴたりとやんだ。村田がそのウエイトレスになま返事をする間にもそそくさと立つ気配があり、元妻が振り向きもせず入口のレジに歩いていった。村田の眼に懐かしいオレンジと黒とベージュのタータンチェックのスカートが揺れて行く。その尻の振りかたからは、背後にいながら黙っていた村田への怒りが読み取れた。  アイボリーのワンピースを着て髪の長い宮本はるかが村田の横でちょっと立ちどまり、「先生。すみません。いらしてたのね」と言ってくくくと笑い、瑠美子のあとを追った。瑠美子は支払いのあと、自分の言ったことを後悔してか、ちらと心配そうな表情で村田を見てから、友人の支払いを待たず外へ出ていった。 「あれは君と離婚する前からの瑠美子さんの友人だろう」と、望月源之輔が言った。 「友とワインは古いほどよいというのは真実かなあ。あの宮本はるかというのはセンター街にあるブティックの経営者だ」 「町田美都の愛人は以前、画家の亀井万治だった。今は東京に住んでいる美術商の校倉という年寄りだ」 「犯人は亀井万治だ」と村田は間髪をおかず言った。「三角関係のもつれだな」 「メキシコというのは画家にとって魅力のある場所らしいんだな。行く画家はずいぶん多い。亀井さんもだ。去年から行ってる。校倉は、町田さんによればただの友人ということだが」 「友を選ばば穴ふたつ」村田は無意味なことを口走った。「年寄りって、いくつだい」 「独立美術協会ができたのは自分が生まれた年だったと言ってたなあ。もう七十歳になるんじゃないの」 「セクハラをやった姥坂市長はたしか六十七歳だろう。今、男の七十歳は現役だそうだ」 「町田美都を殺す動機のある人というのは、おれには思いつかないよ。校倉さんが町田美都を殺す理由なんてないしね」 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。あのね、君が知らないだけで、隠れた三角関係というものがあるかもしれないぜ。彼女、パーティなんかではよく瑞念寺の住職と話してるじゃないの。一緒に町歩いてるのおれ、見たことあるよ」 「トム・クルーズって、知ってるだろう。あの和尚は色男だよなあ。浮いた噂もあるけどね。でも彼女は檀家なんだ」 「野口さんだ」入口を見て村田が言った。  野口弥五郎という書家が、ガラスドアを押して入ってきた。姥坂市では洒落者《しやれもの》で通っている、白い鼻下髭を蓄えステッキを持った和服の老人である。 「警察の人間は想像力がない」彼はことわりもせず村田と望月のいるテーブルに向かって掛け、そう言った。老人性の、粉が吹いたような白い皮膚をしていて、顔は昔風に長く、眼つきはよい方ではない。「未だに犯人の目星がついとらんと言う。わしの甥が市警に勤めておるから、何かと情報を教えてくれるんだがね。君たちは友達か」 「友は第二の自己、なんて言いますがね」村田は言った。「ぜんぜん似ていないのに、友人関係にあります」 「この村田勘市は」と、望月が笑いながら言った。「犯行の動機の裏には三角関係が見え隠れするなどと言っておるんですがね」 「犯人は市長だと思うよ」  野口は村田と望月が唖然とするようなことを平然として言い、注文を取りにきたウエイトレスが吃驚《びつくり》して「ええー」と叫んだ。 「馬鹿者。何という声を出すか。千二百円のモーニング・セットだ」野口弥五郎はウエイトレスを睨みつけてから、ふたりに重おもしく頷きかけた。「その人物が死ぬことによって誰が利益を得るか、とか、誰が恨みを晴らすか、だけを考えていてはいかんのだ。その事件が新聞で報道されることによって誰が利益を得るかを考えればよろしい」 「新聞紙面のスペースは限られているから」と、村田は言った。「市長のセクハラ問題の記事が載らなくなる。なるほど理屈はその通りです。でも野口さん、死亡推定時刻は市長の公務時間ですよ。昼の日なかに姥坂市長ともあろうものが、凶器の紐をぶらぶらぶらさげて住宅街の殺人現場にやってくるでしょうか」 「セクハラをした男だ。殺人くらいやるだろう。誰かに頼んだのかもしれんしな」  野口弥五郎が本気なのか冗談を言っているのかわからなくなり、村田も望月も黙りこんだ。  推理小説になるかもしれんなあ、と、村田は思った。自分のことが新聞に載らぬよう、もっと大きな別の事件を起すというアイディアは、セクハラなんかよりもっと必然性のある設定でなら可能かもしれない。それはおそらく、犯人にとっては重大な問題であっても一般的には些細な事件でなければならないだろう。それを胡麻化《ごまか》そうとして、自分が犯人だとは絶対に誰も思わぬような大事件を起すことは可能だ。巨悪としての政治家が、ほとんど日常的になってしまった新聞の攻撃をそらせようとして、わざと国際的な緊張や戦争勃発の危険に近づくような政策をとり、国民を不安に陥れるといったことなら前例がある筈だ。しかしそれに近いことを試みたクリントンは失敗したし、この姥坂市長の場合にも当てはまらないだろう。今、政治家のセクハラは大問題なのだ。 「いい女だったが、わしは振られたことがあるなあ」老人が頭上の吹き出しの中に町田美都の顔を思い浮かべて、寂しげにそうつぶやいた。「死んだのかあ」 「あっ。片思いという動機もあるよ」村田は望月に言った。「それだと君が知らなくても不思議はない。むしろ君かもしれない」 「わしは昨日の午後、朝日カルチャーセンターで教えておった。証人は山ほどいる」野口老が珍しく慌てた口調で言った。「犯人はわしではない」 「ヴィクトリア・アルバート美術館にどんな絵が収められているか調べるのに、芸大へ行っていた」と、望月も言った。「証人がいるかいないかわからないけど、誰かはおれの姿を見ている筈だ。あそこ、教え子が多いからね」  宮本はるかが息をはずませているような様子で戻ってきた。彼女は村田たちのテーブルにやってきて大声で報告した。「あれはもう今年になってからだったかしらん。最後にお会いしたの。大変です皆さん。今朝がた、建築評論家の南條郁雄先生が殺されたんですって」  もと伴侶をどう呼ぶか  連続殺人事件だというのでニュースはたちどころに市内に拡がり、あちらでもこちらでも侃侃諤諤《かんかんがくがく》の騒ぎになっているようだった。村田勘市も一関係者としてこの騒ぎに参加したかったし、本来はそういう騒ぎに好んで参加するキャラクターであることを自分でも心得ているのだが、あいにく週刊誌のエッセイが締切の日を迎えていた。彼は自宅に戻らなければならなかった。  週刊誌見開き六枚のエッセイに書くべきことはすでにあり、言うまでもなくそれはこの事件のことだ。そのエッセイはそもそも昨日から書きはじめていて、テーマは「郵便局員の無愛想が何に由来するか」だったのだが、三枚目で書くべき続きを見失い、気分を変えようとして買物に出かけ、殺人事件に遭遇したのだった。文化人連続殺人事件は掲載号発売までに全国的な騒ぎになっている筈であるから、最初に被害者を発見し目撃した村田が当然書くべきテーマだし、期待されているテーマでもある。だから昨日書いた三枚分は破棄した。  殺人事件に関して、村田が彼の文体でもって最もいきいきと表現できるのは、町田美都の死に顔を見た時の恐怖である。さっき聞いたばかりの南條郁雄殺人事件のことはまだ知らないということにして来週書く分にまわした。余人ならぬ作家が直接体験したことは貴重である。小出しにしなければならない。  彼は自己の無意識を掘り返し、あの激しい恐怖と結びつくものを探索し、言葉を探し、選び、腰を抜かすという非日常的な行為に至った心理学的考察を、極めて神経症的に文章で再現しながらじわじわと恐怖の本体に迫っていった。読者のセンセーショナリズム志向を満たしながらも文学になっている、ちょっとした傑作になりそうだった。途中空腹になったので「ムル」の帰途また同じ店で買って戻ったアンチョビとバージンオイルでアンチョビのスパゲティを作って食べ、夕刻四時半には書き終えた。「笑顔」と「死」という一種の禁忌に触れる結びつきが恐怖の正体であったと解明した時は正味六枚と四行になっていた。  執筆途中で新聞二社と週刊誌二社から電話があった。週刊誌一社は原稿の督促だったがあとは事件の取材だった。コメントしやすいので村田は今書いたばかりの内容も含めてべらべら喋ったが、書いた原稿と記事が重複することは滅多にないから別段かまわないのである。記者は取材対象が喋ったことをたいてい聞き違え、喋った通りに書いてくれることは滅多にない。むしろ村田は逆取材することによって、記者の問いに答えられなかった南條郁雄殺しの詳細を知ることができた。  原稿用紙七枚のエッセイをFAXで送信してから村田は望月源之輔に電話をかけ、待ちあわせする店を駅前繁華街の裏通りにある小料理屋の「たちばな」と決め、郵便受の夕刊をポケットに入れてまた外出した。  五時半開店の「たちばな」にまだ客はひとりもおらず、村田はいちばん奥の席に腰かけて望月が来るまでの間夕刊を読んだ。建築評論家の南條郁雄は昨日の被害者町田美都と同様独身であり、今朝方通いの家政婦が南條の自宅リビングで絞殺されている彼を発見したのだという。死亡推定時刻は朝の八時半から九時半までの間で、争いのあとはなく、何かが盗まれた形跡もないという警察の発表だった。南條とは顔見知りだが親しいというほどの間柄ではなかった。村田には、貫禄のある好男子だがいささか気難しい人物であったという印象しかなかった。  同一犯人だ、と、村田は思った。姥坂市に住む文化人社会のややこしい人間関係からえたいの知れない利害または怨恨が生まれ、そこから発生した殺人事件に違いないぞ。何しろ動機は不明なのだ。おれもうかうかしてはおれんな。 「あなた」  すぐ横で声がして、村田はわっと叫んで跳びあがった。瑠美子が夫の串田左近と一緒に立っていた。 「ご免なさい。驚かせてしまったわね」  村田の驚きように瑠美子は笑いをこらえ、大男で恰幅《かつぷく》がよく、浅黒い顔をした串田が苦笑している。  村田は腹を立てた。「事件の記事を読んでいたんだ。おっかない思いで読んでいることくらい、わかるだろうが。突然声をかけるなよ」そう言ってから今度は串田を睨みつけながら言った。「だいたい『あなた』とは何だい。君とは離婚したんだろうが」  離婚後、瑠美子が串田と結婚してすぐ、市役所に提出する書類に不備があったので村田は書類を持ち、一度だけ串田家を訪れたことがある。一丁と離れていない串田家へ行き、応接室で串田立ち会いのもとに瑠美子と話している時だ。村田がうっかり「瑠美子」と呼びかけ、串田は苦笑しながらではあるがこう言ったのだった。 「私の妻を呼び捨てにしないで下さい」  あわててふたりに詫びたその時のことを村田は憶えていた。串田を睨みつけながらの難癖はそうした理由からである。 「いや。すみません。すみません」串田が妻にかわって謝ったのは、彼もその時のことを思い出したからだったろう。「いや何。われわれ、話しあったのですが、こんな事件が起ってお互い不安なので、お近くですし、時どきはお会いしてお話などしてもいいのではないかと、その」  意図不明の提案に、村田は不審の眼を瑠美子に向けた。瑠美子は村田が初めて見る淡いピンクのスーツ姿であり、日本料理屋での外食のためか装いを凝らしていて、今まで村田の知らなかった魅力を発散させていた。  瑠美子がくすくす笑いながら言った。「だってあなた、怖がりでしょう」  また「あなた」と言ってやがる。村田は顔をしかめた。しかしそうとしか呼びようがないのかもしれないな。村田は気にしないことにした。 「孤独は恐怖心をつのらせるから話しあう仲間になってあげようとおっしゃるわけで」村田は笑いながら言った。「ありがたいことです。たしかに何ごとに対しても疑心暗鬼になっておりますがね、ただまあ、今のところ、ここには別段ひとりで来たわけではなく、友人と、ご存じの望月君ですが、待ちあわせをしておりましてね」 「あら。望月さんと」なぜか困った表情で瑠美子が言った。 「そうでしたか。じゃ、私どもはあちらの席に行きますが」串田がにこやかに言う。「もしお暇な時は、どうぞ私どもの家へお遊びにお越し下さい」  オカルト的な自己完結 「ぜひお邪魔させて下さい」村田も愛想よくそう言った。瑠美子を強く恨んでもいず、無愛想にする理由は何もない。 「何もいらないからね」と瑠美子が言った。  他家を訪れる際には必ず手土産を持参する村田の習慣のことを言っているのに違いなかった。 「わかった」と村田は言った。  串田左近は何だかわからず、不審そうな顔をした。彼は女性に優しくしている時以外は鈍重に見え、心に受けた傷をかかえ込む性質と、村田には思えた。その鬱憤《うつぷん》が自宅で暴発するのかもしれなかった。  ふたりが入口に近い自分たちの席へ行き、村田はまた紙面に眼を向けたが、心は今の串田夫妻の言葉をさまざまに吟味していた。近所づきあいをしようという提案は瑠美子が発したものに違いなかった。彼女が串田左近を説得したのだろう。そのココロは、もと夫である村田の、事件による屈託を慰めることにかこつけて、なろうことなら村田の心をふたたびおのれに向けさせ、串田の暴力を牽制させ、おのれを護らせ、売れっ子となった村田のおこぼれに与かっていささかの経済的援助を乞うつもりであるのだろう。なにしろ四年も一緒に暮したから、瑠美子の考えは手に取るようにわかるのだった。 「あら。望月さん」 「おっ。串田さん。これはどうも」  串田夫妻がいるのでちょっと驚きながら望月源之輔が村田の席にやってきた。「また瑠美子さんがいるぜ」 「誰が経済的援助なんか。いや。もう、気にしないことにした。それより南條さんのことだが、君は親しかったのか」 「例によって『おまかせ』にするかい」望月は背中を曲げておしぼりを持ってきた作務衣《さむえ》の亭主に地酒のオン・ザ・ロックと「おまかせ」を注文し、かぶりを振った。「姥坂市在住の評論家が集って年一回『うばさか』の座談会をやるんだが、話すのはその時だけだった」 「うばさか」は姥坂市のタウン雑誌である。村田も読んだことのあるその座談会は、この一年の各文化ジャンルの収穫を論ずるというものだった。 「手口が同じだ。同一犯だと思う」村田は断言した。 「殺した者が殺され、それで同一犯なんてことがあるのかな」望月がそんなことをぶつぶつ呟いてから、村田の方へ身を乗り出した。 「あのさ、変なこと聞いたんだ。町田美都の首を絞めたループ・タイの紐は、南條郁雄のものだったらしい」  村田は絶句した。 「南條のところの通いの家政婦が、警察で町田美都の首を絞めた凶器を、紐だけど、あれやっぱり凶器って言うんだろう、その紐を見せられて、南條のものだと証言してきたらしい。銀の飾りだけ南條の机にあったので、紐はどうしたのかと思っていたらしいんだ。家政婦がそう言い触らして騒いでいる」 「流れる水は腐らない。いや違った。それなら南條氏の首を絞めた紐は何だった。やっぱりループ・タイの紐か」 「ヒモです」  亭主がやってきて酒とつき出しを卓上に置き、村田はまた、ぎくっ、として身をそらせる。 「何を考えている」望月は村田の頭の中を覗き込みたげな眼をした。「女ものと思われるスカーフだったらしいが」  小説になりそうだ、と村田は思った。「三角関係であれば、面白い話になりそうだな。町田美都は南條郁雄のループ・タイの紐で絞殺された。南條郁雄はもうひとりの女のスカーフで絞殺された。そしてそのもうひとりの、三角関係の一端をなす女が、町田美都の持ち物であった紐で殺される」 「やめてよ」離れた席から瑠美子の叫ぶ声が聞こえてきた。「もと夫婦だったんだから、夫婦にしかできないようなツーカーめいたやりとりがあったって不思議じゃないでしょ。何よ、そんなことで妬いて」  おれのことでさっそく夫婦喧嘩かと思い、村田は苦笑した。外見に似合わぬ串田の女性的な性格が見えた、と村田は感じた。瑠美子はあるいは、村田たちに聞こえそうな大声を出すことで夫の嫉妬を牽制しているのかもしれなかった。 「時間の感覚が異常だぜ、お前さんは」望月は言った。「そんな女がいたとしても、町田美都に殺されるわけはないだろう。彼女はもう死んでいるんだから」 「連続殺人事件のオカルト的自己完結」と、村田は言った。 「ホラー小説の話かよ」望月は地酒をぐいと呷《あお》った。「まあ、第三者がいて、そんな細工をしてオカルト・ブームの世間を騒がせようとしたのなら別だが」  ありきたりの結末だな、と村田は思った。マジック・リアリズムめいた実験的な作品にはなり得ない。そんな常識的な想像しかできない友人にいささか失望し、ちょっと軽蔑したが、一方ではすぐ小説のことを考えてしまって現実を探究しようとしない自分にも愛想が尽きる気持があり、それを糊塗しようとして彼は言った。「町田美都と南條さんはどんな関係だったんだ」 「カンパチの寒ざらしです」亭主が小皿を置いた。 「無関係という関係だ」そう言ってから望月は弁解した。「これは子供のことば遊びじゃなくて、哲学的にも美学的にも正しく、そして大事な考え方なんだよ。その無関係の関係性が事件の鍵のような気がする」 「野口さんだ」村田が入口を見て言った。  のれんを片手で分けたまま店内を見まわしていた野口弥五郎が、村田たちを見るとつかつかと入ってきて断りもなく村田の横に席を占めると開口一番、重おもしく言った。「市警におる私の甥が、重大な情報をもたらしてくれた」  老人特有のあたりをはばからぬ大きな声だったので、串田夫妻の口論めいた会話がぴたりと止んだ。 「四年前のことになるが」芝居気たっぷり、弥五郎老人はゆっくりと話しはじめた。「あんたたちも憶えておろうが。あの明治時代に建てられた税務署の建物が老朽化したため取り壊されようとしたことがあった」 「あっ。しまった」そう聞いただけでただちに事態を悟り、村田は叫んだ。「おれも加わったんだ。取り壊し反対の運動に。えらいことをした」  文化人皆殺しの可能性  先走る村田に野口老は非難の眼を向けて言った。「君は頭のいい人だ。状況がわかったらしいな。だが心配するな。反対したのは君だけではない。この姥坂市のほとんどの文化人が反対した。わしも含めてな」 「市に補修の予算がないことを知っていたから、ぼくはあまり強くは反対しなかった」  そう言う望月に村田は言った。「一緒に上京しようとして姥坂駅のホームにいた時、町田美都と会っただろ。あの時君は彼女に非難されて、反対派に転向したんだ」 「あたしゃ、憶えとりますがね」野口老人の注文をとりにきた亭主が口をはさんだ。「いちばん熱心に保存を叫んでおられたのは町田先生だったぞな」 「わしにも同じ酒だ。『おまかせ』でな。いや。今朝殺された南條郁雄も同じくらい熱心だったぞ。建築評論家だったからな」老人は遠くを見る眼をした。「みんながこぞって反対したなあ。保存にどれだけ金がかかるかの知識もなく」 「私はありましたが」矢も楯もたまらなくなったか串田左近が立ちあがり、傍らへやってきた。「建築家ですからその知識はあったのですが、皆さんの勢いに押されたのと、文化庁の文化財保護委員会からなにがしの金は出るだろうと高《たか》をくくって保存運動に加わったんです。しかるに文化庁は」 「こら。立ったまま喋るな」野口弥五郎が唾をとばす串田を叱咤した。「そこの席が空いておるから、移ってきなさい」 「妻も一緒なのですが」 「奥さんも来させなさい」 「この席は四人掛けです」 「亭主。椅子を持ってこい」  串田夫妻が移動して来て、五人が狭苦しく桧《ひのき》の食卓を囲んだ。 「市はしかたなく保存を決定した。だが補修費用がないままに、建物はいつまでもそのままだった」野口老人は皆の知ることを確認するように話し続けた。「そして去年の大惨事となった」 「ああ」全員が身もだえるような仕草をして吐息をついた。 「崩落の時建物内部にいた職員三十六人が死んだんだ」望月が悔しげに言った。 「三十七人です」瑠美子が言った。「あとで病院でおひとり、亡くなったんです。それから負傷者四十九人の中に半身不随になった方も二人おられて、そのお二人は税務署をおやめになりました」 「遺族たちが、文化人たちを恨んでいるとおっしゃるんですか」串田は沈痛な表情で野口弥五郎に訊ねた。 「その通り。甥によれば、姥坂市の文化人が皆殺しにされる可能性もあるそうだ」  村田と望月は唖然とし、大声だったため酒とつき出しを運んできた亭主がのけぞり、雰囲気の異様な変化に驚いてか、土間にいた猫が裏通りへ走って逃げた。  村田は開きなおるように野口を見た。「野口さん。しかしわれわれ文化人としては、文化遺産が壊されようとしているのを黙視しているわけにはいかなかったでしょう。反対するのが当然であって、恨まれるいわれはありませんよ」 「私たちは税務署の建物を壊すなと言ったんじゃない、あの建物を壊すなと言ったのであって、取り壊すにせよ保存するにせよ、税務署は一時の仮住まいに移転するものとばかり思っていた」と、串田が言った。「ところが保存が決まると、市は新築の予定地に仮の庁舎を建てる費用を惜しみ、中に署員がいるままで補修工事のための調査をやりはじめた。新築以上の予算がかかるので、業者との折衝がえんえんと長引いたんです」 「あのう、あの時の地震にも責任があるよ」  そう言った望月に野口老人はかぶりを振った。「やはり人災だろ。ただの震度2の、いつでも起るような地震だ。地震に責任とらせちゃいかん」なんとなくこのまま殺人が連続してほしいような口ぶりだったが、無表情なので彼が内心どの程度楽しんでいるのか推測できない。 「いったい何人くらいいるんですか」村田が野口老人に訊ねた。「その、われわれを恨んでいる遺族というのは」  野口弥五郎は手帳を出した。「甥の話によると、警察の調査で遺族の数は百六十三人と出たそうだ。片輪になった者や負傷者の家族なども入れるともっとになる。ただしこれらの全員が文化人を恨んでいるわけではなかろう」 「容疑者の絞り込みが困難ですな」串田が天を仰いだ。 「そんなに大勢から恨まれてたまるか」村田は頭をかかえた。 「あの、順番はどうなりますか」望月は青ざめて訊ねる。「殺される順番ですが」 「すでに殺された画伯と南條郁雄は、いちばん熱心な保存論者だった。あと、先頭に立った者としては歪谷《ゆがみだに》幸一がいる」 「殺されてもよい。いや」村田は自分の言に泡を食ってかぶりを振った。歪谷幸一は村田と仲の悪い文芸評論家である。「あの人はしかたがないでしょう。事故のあと、税務署員の死よりも建物の方が惜しまれるなんてほざいた」 「その次は」望月は身を乗り出した。「順番ですが」 「あとは皆、同程度だなあ」野口はまた手帳を見た。「どの順番で殺されても不思議ではない」  手帳を見たいものだ、と、村田は思った。 「何人になりますか。そこに書かれている文化人は」 「ひいふうみ、殺された二人を除けば、歪谷幸一、わし、あんた、この望月君、串田君を含めて十四人だな。その周辺の者も入れたら二十人を越す。例えば市長とか、文化振興委員の真木継雄みたいに保存運動の世話をした者とか」  じゃあ、その妻の加寿子もだろうな、と村田は彼女の顔を思い出しながら思った。それにしても十四人の内わけを知りたいものだ。いったいそのうち全国区が何人で地方区が何人なのか。だが串田のいる前でそんなことは口にできない。 「あの、でもそれ、すべて甥御さんの推測なんでしょ」  そう言った瑠美子に野口は向き直って言った。「甥ではなく、警察の、です。警察はあらゆる犯人像を推定しとります。遺族というのは推定のひとつに過ぎんそうだ」  だが村田には、他の動機が見あたらない現在、それが最も合理的な推理であるように思えたのだ。  無関係という関係が鍵  野口弥五郎に頼みこんで手帳から書き写してもらった被害者予備軍たる文化人十四名の名を見ながら、その夜村田勘市は湧き出てくる恐怖から次つぎと生まれ出る思念にずっぷり浸りこんでいた。寒い季節でもないのに悪寒がし、そのくせ頭からこめかみへとしきりに冷汗が垂れた。  いったい税務署崩落の犠牲者三十七人プラス二人計三十九人の遺族と家族、百六十三人プラスαのうち、二件の殺人が可能だった人間はどれくらいいるのか。幼い子供や寝たきり老人を除き、また二件の殺人事件の両方またはどちらかに関して確固たるアリバイのある人間を除き、あと何人が容疑者として絞り込まれるのであろう。いずれ野口老が捜査の進捗《しんちよく》状況を甥から聴いてきてくれるのだろうが、少なくとも容疑者がほんの何人かにまで絞られ、真犯人が犯行を重ねようとしても不可能となる状況に至るまでは、残っている文化人十四人の身が安全になったとはとても言えないのである。警察が百人を越す容疑者のひとりひとりを監視し続けるのはとても無理と思えるからだ。村田は恐ろしさで尻が浮いた。  これも推理小説になるなあ、恐怖のあまり故意に考えの向きを変え、村田は思った。何人かの、殺されそうな、連続殺人事件の被害者予備軍という存在は推理小説ではおなじみのものだ。だがそれに加え、百人を越す容疑者グループが存在し、そのうちの誰が誰を殺しても不思議ではないという設定の話はなかった筈だ。そんな馬鹿馬鹿しい状況が現実にあり得たのだから、これをもうひとひねりすれば面白いものができるぞ。その場合、真犯人が容疑者グループの一員であっては意外性に乏しくなるから、それとは無関係の動機を持ったそれ以外の犯人を考えなければなるまいが。  待てよ、と村田は頭の中で立ち止まった。ところで、それならば、現実においても、被災者の家族のうちの誰かが犯人と決めてしまってよいのだろうか。瑠美子はそれが推測に過ぎないと言い、野口老もそれを否定せず、警察も犯人としての彼ら大勢を推定のひとつに過ぎないと考えているようなのだが、ではいったい他にどんな犯人像が推測可能なのかというと、何も考えつかないではないか。  そこまで考えた時、村田が思い出したのは望月源之輔が洩らした「無関係の関係性が事件の鍵」ということばだった。真意がどこにあったのか、ちょうどその時野口老が店へ入ってきたので聞き漏らしたのだが、たしかに現在までのふたりの被害者の間に何の関係も認められぬとすれば、ふたりの間が無関係であったことにこそ事件を解く鍵があるとするそのことばはなかなか含蓄に富んでいる。では、無関係なふたりが同一犯に殺される動機とはどんなものであり、どんな犯人が考えられるのか。  ここで村田は、町田美都が殺された翌朝、つまり昨日の朝、喫茶店「ムル」で野口老人の言ったことばを思い出した。彼は市長が犯人だという突拍子もないことを言ったのだった。その推理の根拠は言うまでもなく、市民やマスコミの眼をセクハラという自分の行為から殺人へ移行させ、即ち新聞紙面に殺人事件のみを前景化させるためであったというわけだ。しかし野口老のその推理は、まだ第二の殺人事件が起っていず、税務署崩落の犠牲者の遺族という犯人像が推測される以前のことであった。では現在、市民やマスコミのみならず警察の眼をさえ自分からそらせようと真犯人が考えたとすればどうなのか。  うう、と村田は呻《うめ》いた。あの二人を続けさまに殺したのは、警察の眼を税務署崩落の犠牲者の遺族に向けさせるためだったのではなかっただろうか。ではあの二人の間に何の関係もなかったのは当然だ。してみれば犯人は町田美都もしくは南條郁雄のどちらかを恨んでいたというだけで二人を殺したか、もしくはどちらも恨んでいず本当に恨んでいる文化人はこれから殺そうとしているのだ。いや、町田美都や南條郁雄に激しい怨恨を抱く人物が誰にも思いあたらず、今までまったく推定できなかった以上、真犯人の標的はまだ生きていると考えた方がよい。では、やはり殺人事件は今後も連続して起るのだ。村田は顫えあがった。建物の保存運動に強くかかわった人物をふたりまで殺した現在、あとは残りの文化人十四名を誰かれなく、むしろ無差別に殺しやすい者から順に殺していけば、多くの人の眼をますます犠牲者の遺族という容疑者グループへ向けさせることができる。そして被害者の中に、自分が真に殺そうとしている人物を混入させればいいのだ。  これは、小説に書いたとすれば凄いものになるぞ。眠れぬままに飲み続けていたウィスキーの酔いも手伝って村田は瞬時恐怖を忘れ目茶苦茶に興奮した。むしろ、倍加してきた恐怖を忘れようとして、ミステリーのアイディアにのめり込み、執着し、熱中しているのかも知れなかった。  新機軸の推理小説だ。こんな設定、こんな殺人事件、こんな犯人像は今までのミステリーには存在しなかった筈だ。あったとしても設定のすべてが同じであろう筈はなく、読者は新しいトリックと認めて驚くに違いない。そしてさらに新たな意外性を盛りこもうとするならば、単に文化人の誰かを恨んでいる人物というだけでなく、より意外な犯人を設定すべきであろう。考えられる限りのもっとも意外な犯人、つまりそれは当然、被害者予備軍とされている人物のひとりでなければならない。なぜなら自分を犯人の標的のひとつと擬装することで、彼は警察の容疑者リストから外され嫌疑から遠ざかる上、あまりにも多くの被害者ゆえに彼が真の標的を殺した動機もわからなくなり、むしろ無化されてしまうからだ。読者にも納得のいくトリックではないか。  あっ、と村田は叫んだ。現実にも、真犯人は十四人の文化人の中にいるのではなかろうか。怨恨にしろ利害にしろ殺人の動機は被害者に近い人物であるのが普通だし、町田美都にも南條郁雄にも家族がいなかったという事実に加え、遠い親戚が遺産目あてで殺したという推理も、ふたつの殺人事件が同一犯であることによって無意味になってしまうから、残るところは十四名の文化人の中の誰かが犯人ということになってしまうのではないか。  この中の誰が犯人なのだ。村田は文化人リストを見ながら想像力を駆使しようとした。だがそのあたりからウィスキーがまわってきて朦朧《もうろう》状態に陥り、間断なき恐怖に疲れていたためか欲得抜きで眠くなり、彼は精神と肉体の双方を崩落させてベッドへ倒れこんでしまった。  薔薇を手折る三人の娘  推理の途中で寝てしまったので、怖い夢ではあったが、考え残した気になる問題がドラマチックに登場する夢でもあった。設定はおそらくアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」からの借り物であろう。何度か行ったことのある美術館のがらんとした建物の中、文化人と思える何人かと共に村田勘市もいた。「美術館」はおそらく「税務署」の代理=置き換えであり、そこには美術関係者である町田美都や望月源之輔からの連想も混っているのだろう。  文化人がひとりずつ殺されていく夢だ。美術館のとある小部屋に入ると、誰だかわからないが俯伏《うつぶ》せに倒れていて背中に短刀が突き立てられている。その隣の小部屋へ行くとまた誰かが、という繰り返しであり、時には、今度は誰それが殺されたと言ってただ皆が騒いでいるだけのこともある。いずれは全員が殺されてしまうという話であることは、クリスティのファンだった村田には勿論わかっているし、まだ生き残っている何人かもみな知っているようだ。次に殺されるのは自分かもしれないという恐怖、いずれ自分も必ず殺されるのだという恐怖で、全員が眼を丸くしながら顔を見あわせている。村田自身も口から何か筒状のものがぬっと飛び出そうな恐ろしさに突き動かされて館内をうろうろし、同時に、何やら気になる問題を考え続けている。全員が殺されて誰もいなくなったとしたら、犯人は誰なのだという問題である。外部の者という結末はあり得ない。読者の知らぬ第三者が真犯人であったことになってしまうからで、ミステリーとしては反則なのだ。  はて、この話では犯人は誰だったのか。村田が思い出そうとしている間にも生き残りの数は減り、ついには三人になった。村田以外のふたりというのは、中学生時代の同級生のようだ。三人が顔を見あわせ、戦慄《せんりつ》で「わ。わ。わ」と叫んでいると、若い女たちの笑い声が聞こえてきて、村田はあまりの恐ろしさに「ぎゃあ」とわめき、眼を醒ました。  飲み過ぎたせいか頭痛がし、寝汗をかいていた。寝汗というものがいい汗である筈はないからいそいで下着を着替えていると、窓の外からまた娘たちの野放図な笑い声が聞こえてきた。 「なんて笑い方しやがる」  村田が腹を立てて両開きの窓を押し開けると、道路にいる三人の娘が垣根越しに村田の家の庭に咲いた薔薇を枝ごと折り取ろうとしていた。娘たちは高校生と思える紺のブレザーにチェックの短いスカートという揃いの制服姿で、近ごろ急に増えた、美術館や記念館の多いこの町へ観光にやってきた連中であろう。 「あっ。君たち、なんてことするの」立ちすくみ、自分に注目している三人に、下着姿のままの村田が言った。「薔薇の乙女が薔薇の花を手折《たお》るなんてこと、しちゃいけないでしょ。天にましますあのお方が君たちを見て、お怒りになってるよ。あれまあまあ、もう折っちまったのね。まあ君たち可愛い顔してなんてことするんだろうね。折ったものはしかたがないから、そのかわり、どう、ちょっと寄っていかない。おれ起きたばかりだから、陽のあたるリビングルームでモーニング・コーヒーつきあってよ」  若い子向けの軽口をたたき続ける村田に、娘たちはまた笑い声で報い、薔薇を手にしたままで立ち去ろうとした。 「あれまあ。行っちまうのかい。そうですかそうですか。狼あとに残して赤頭巾ちゃんたち行っちまうのね。薄情だなあ」  三人の中でもいちばん眼の大きな、丸顔で色白の、村田にとっては最も蠱惑的な娘が振り返り、彼に笑いかけ、ちょっと会釈してから友達のあとを追った。 「うわあ。まるで花が咲いたような笑顔。君だけでもいいから、あとでひとりでいらっしゃいよ。ね。ね」  未練がましく彼女たちのうしろ姿に声をかけ続ける村田を、いつの間にか枝折戸《しおりど》の前に立っていた男があきれたような表情で見ていた。気がついた村田に、地味な茶色のスーツを着た男はあいかわらず憮然とした顔を向け続ける。このあいだ村田を取り調べた刑事だった。 「あっ。デカ長さんだ」村田はどぎまぎして愛想笑いを向けた。「先日わたしのせいで頭を痛打された刑事さんは、別条ありませんでしたか。まあ、お入り下さい」 「あいつはあれ以来、頭が少し変になっておりますが」彼は枝折戸を押し開けて前栽に入ってきた。「早朝からお邪魔します」  無表情のまま村田に招じ入れられた小肥りの刑事は、書斎のデスク横の三点セットで向きあうと、大きな眼で村田を見つめたまま、やや緊張ぎみに話しはじめた。「亀の甲より年の功。いや。先日は遅くまでお引き留めして申し訳ありませんでした。ご存じのように事件はあれから続いてもう一件もちあがりましたので、改めて関係者の皆さんにお話をうかがっております」 「いやな夢を見まして」と、さっそく村田は言った。「いろいろなことを考え過ぎたからだと思います。たとえば」村田は昨夜「たちばな」で望月源之輔に話した「連続殺人事件のオカルト的自己完結」を話題にした。 「それは、可能でしょう」刑事はやっと笑った。「税務署が崩れた際の犠牲者の遺族に疑いがかかっていることは、今朝の新聞でご存じと思いますが」 「いや。新聞はまだ見ていません。見てはいませんが、その話題は知っております」 「では、それらの遺族のうちの三人が、それぞれ三人の文化人のお宅にお手伝いとして住み込む、あるいは通う。そしてそれぞれの方のお持ちの紐とかスカーフとかを盗み、別の者に手渡す。そして打ち合わせの上で、時を同じうして三人がそれぞれの雇い主を殺害する。これだと多少時間が前後しても、循環形式の殺人事件が構成されます」  村田はちょっと驚いて刑事を見なおした。「ラテン・アメリカ文学の隆盛以来、文学の世界でも循環形式というのは非常に新しいテーマです。町田美都は通いの家政婦を雇っていましたか」 「庭は草ぼうぼう、台所は塵芥《ごみ》だらけ。いいえいません。その役に近いことは真木加寿子さんがしておられたようで」 「着想が頓挫するというのはいつも嘆かわしいことです。ではその案は捨てましょう」 「ピーター・ローレという俳優が主演した、『M』という映画が昔、ありました」と、刑事が話しはじめた。  刑事が手帳に書き込む 「フリッツ・ラングの映画ですね。クラシック名画祭でぼくも見ましたよ」当然この事件との関連で例にあげたのだろうと思い、村田勘市は大きくうなずいた。だが、刑事が持ち出した『M』の話は事件とまったく関係がなかったので、彼は驚愕した。 「あの映画の中で警察官たちが捜査会議をやるんですが、会議室の中は煙草の煙がもうもうと立ち籠めています。全員が葉巻を喫っておるんですな。何か深く考えようとする時は昔から煙草を喫ったもんです。物ごとを推理する時など特にね。ところが今は若い刑事たち、煙草を喫わない。あれじゃろくな考えは浮かびません。喫煙者たる私どもなど、署内にいる場所がなくて」  机上の灰皿は吸殻でいっぱいだったので、村田はいそいで台所から洗いたてを持ってきた。刑事はほっとしたようにセブンスターを出した。 「南條郁雄氏とは、まったくおつきあいはありませんでした」刑事が何も訊かないので、村田は自分から喋り出した。「パーティなどでお目にかかるだけでした。もちろんお互いに面識はありましたが。いかに油断していたとしても、あの立派な体格の人物が絞殺されたとはねえ」 「県警の連中がこの捜査の中心です」刑事は投げやりに言った。「われわれ市警の者は、傍証をとりに走るだけでしてね。あなたのように何の疑いもない人から証言を聞いてまわるだけの役目ですよ」あははははは、と刑事は驚くべきことに無表情のままで自嘲の笑いを笑った。  村田は安心した。「まさかぼくを安心させようとしておっしゃっているんじゃないでしょうね。自分はいつやられるかと怖い思いをしているのに、この上警察に疑われてはたまったもんじゃない。いひひひひ」 「海は死にますか、山は死にますか、あなたはどうですか。いや失礼。わたしはよく知らないんですがね、南條先生のループ・タイの紐で町田先生が殺されていたことが重視されておるようです。ですから今のところ、犯人必ずしも死んだ税務署員の遺族とは決定されていない。それ以外の誰かかもしれないし、文化人の誰かと考えられないこともない。またふたつの殺人は共に顔見知りの犯行と考えられますが、顔見知りであることと税務署員の遺族であることとは両立が可能です。でもあなたはふたりの被害者とほとんど無関係であったことがわかっていますからね」  無関係の関係性。ふたりの被害者と何の関係もなかった文化人が最も真犯人に近い人物であるという昨夜の推理を話したりして、わざわざ容疑者のひとりになることもあるまいと思い、村田は黙っていることにした。その時、昨夜の夢の記憶から働いた連想で何やら大変なことを思いついたような気がしたが、それは刑事の次の質問であさっての方角へすっとんでしまった。 「村田先生。あなたは小説家でしょう」 「エッセイも書きますが、小説家です」 「望月源之輔先生は美術評論家ですよね。小説家と美術評論家がどうしてお友達なんですか」 「ははあ。われわれの仲のよさがそれほどまでに姥坂市の誰かれの知るところとなっておりますか。でももっと仲のいい人同士の職種が大きく異なっていたりもしますよね。美術家と住職、とか」 「瑞念寺の和尚のことですか。町田先生と仲のいい美術商の校倉という人のことはどうですか」 「それこそ望月君に聞いて下さい。ついでに前もって申しあげておきますと、社会的にホモ、レズが認められて性的退廃とされなくなって以来、男女のつきあいと同性のつきあいは同じ程度人の噂になりますが、わたしはホモではないので女性である町田美都さんの交友には多少関心があります。しかし、たとえば南條郁雄さんの交友関係にはまったく関心がありません」 「アール・ヌーヴォーとアール・デコは、どう違いますか」 「あっ。えらいことに気づきましたね。そうですよね。その通りだ。アール・ヌーヴォーは十九世紀末から二十世紀はじめにかけて流行した美術様式で、建築にも取り入れられていて、崩れた税務署の建物、あれもアール・ヌーヴォーでした。南條郁雄氏の研究対象のひとつでした。アール・デコはアール・ヌーヴォー様式による装飾で、これは町田美都さんがお好きでした。あなた、もう望月君に会ったんですね」 「税務署の建物を保存しようという運動が盛りあがった頃の新聞を見ると、今のようなことが書かれていて興味深いですな。望月先生にはこれから会いに行きますが、では町田先生と南條先生とは、ご趣味が同じということで、あの運動をされる以前からもおつきあいはあった、そう見てよろしいか」 「ぼくに訊かれても」 「じゃ、それも望月先生にうかがうことにしましょう」刑事は手帳に書き込みはじめた。「ホモ、レズは性的退廃ではない。あなたはホモではないので望月さんともそういう関係ではない。町田先生の交友関係には関心があったにかかわらず南條先生との交友は知らない。ふたりの趣味が同じであることは今思い出した。着想が頓挫することは嘆かわしい。昨夜は眠れなかった、と。わかりました」刑事は手帳をしまい、立ちあがった。 「け、刑事さん」村田もあわてて立ちあがった。 「お邪魔しました。連続殺人事件の循環というお話は、とても面白く拝聴しました。あはははは」また無表情なままで笑い、刑事は帰っていった。  頭が変なのはあの刑事自身ではないか、と村田は思った。あるいは頭がいいのか、馬鹿のふりをしているのか、本当に馬鹿なのか、刑事とはみんなああなのか、村田にはわからなかった。手帳に何を書き込みやがった。まったく、ろくでもない刑事だ。  台所でコーヒーを淹れ、パンを焼き、ベーコンエッグを作り、新聞を取りに出る間、村田はさっき頭をよぎった考えを復活させようと努力し続けたがうまくいかなかった。朝食をとりながら事件のことが出ている朝刊を読んだ。村田はセンセーショナルな記事をいささか期待していたのだが、建物崩壊の犠牲となった署員の遺族に疑いがかかっていることは、人権問題に発展することをおそれたためか、ずいぶん和らげられた表現で書かれていた。  豪雨と雷鳴の中の恐怖  村田勘市ならば取材しやすいとでも思っているのか、事件についてコメントを求める電話が次つぎにかかってきた。どうせ書きかけの長篇を書き継ぐ気にはなれないのでいちいち応じているうち時間が経ち、村田は空腹になってきた。料理を作る気にもなれず事件のことをぼんやり考えるうち、だんだん怖くなってきたので村田はあわてて、昨夜、「だってあなた、怖がりでしょう」と言って笑った瑠美子のことを考え、気をまぎらせようとした。  原稿の締切が迫り、執筆に集中しようとしている時に限って瑠美子が外出しようと言い出し、困らせたことを村田は思い出した。あれはいったい何だったのかなあ。自分より大切に思われているらしい小説に対して嫉妬したのだろうか。 「母が、夫婦で夕食に来てくれって言ってるのよ」 「でも、仕事があるんだ」 「あなた、わたしの母が嫌いなのね」 「そんなことはないけど、椎名君がこの原稿を待っているんでね」 「じゃ椎名さんに断ったげるわ。今日は書けないって」 「そんなこと言ったら椎名君が怒るよ」 「椎名さんはわたしの言うこと、きいてくれるわよ」 「そりゃ、君が強情だってこと、知ってるからだよ」 「あなただって強情じゃないの。どうしてあなた、わたしの母を毛嫌いするのかしら。結婚した時からだったわね。ねえ。わたしの話を聞いてるの」 「聞いてるよ」 「原稿書きながら、なんで人の話が聞けるのよ」 「すまんが、集中させてくれ。ものを書いている人間に横から、よくそうやって話しかけられるもんだな」 「あなた、わたしを軽蔑してるんでしょう」 「そんなことないよ」 「今そう言ったじゃないの。ちょっと。ちゃんと聞いてよ」瑠美子は村田が書いている原稿に手を置く。 「おい。手、どけろよ」 「どけません」 「どけろ。どけないと」 「どけないと何よ」 「女だからなあ」 「女だからどうだって言うのよ」 「男なら殴っているところだ」  瑠美子はせせら笑う。「あんたなんかに、人が殴れるものですか」  言いあいになり、執筆どころではなくなって小説は書けず、そしてたいてい外出もできなくなる。  愛していないわけではなかったのに、と、村田は思う。ふたりとも強情だったのだ。よくあることなんだろうなあ。男の仕事への執着と女の我儘。しかたのないことなんだろうなあ。  いよいよ空腹になってきたので、何か食べに出ようとして気がつくと、雨が降りはじめていた。外出する気が失せ、ベッドにひっくり返った。また事件のことを考えるうち、文化人のリストを見たくなり、また起きあがって村田は机に向かった。   書家・野口弥五郎。   美術評論家・望月源之輔。   建築家・串田左近。   文芸評論家・歪谷幸一。   その他。   その他。  自分を除き、このリストの中の誰が犯人なのだ。待てよ。誰かが犯人で、そいつが他を順番に殺していけば、最後に生き残るのはその人物ということになるから当然嫌疑がかかるわけである。昨夜夢の中でけんめいに思い出そうとしていたのだが、クリスティの長篇ではどうだったのか。たしか何番目かに殺された人物が実は殺されたふりをしていただけであと何人かを殺し、最後の人物が自動的に自殺するよう細工を施しておいたのだった筈だ。だが現実にはそんなにうまく行きっこないわけで、犯人は何番目かに当初の目標を殺せば、だいたいまあそこいらあたりで犯行を中断するだろう。だが犯人は動機をくらませるために、いったい何人ぐらい殺すつもりなのか。自分はその中に含まれているのだろうか。  空腹が耐え難くなり、雨の中を食べに出ようと決心した時、突然雷雨となり、稲光がして近くに落雷があった。うわっ、と叫んで村田はとびあがり、あわてて玄関や窓の戸締まりに家中を走りまわった。誰も外へ出ようとしないこんな時こそ犯行にうってつけではないか。動機をくらませるための大量殺人の中で、ついでのように殺されてはたまったものではない。あの頑丈そうな南條郁雄でさえ殺された。犯人は狡猾にして凶暴、鈍虐狭隘な人非人に違いないのだ。家の中が光ってまた近くに雷が落ち、村田はベッドにもぐりこんで頭から布団をひっ被った。瑠美子からさんざ笑われた行為であったが、今や笑う者はいない。  しかし、警察の発表によれば町田美都だけでなく南條郁雄も、犯人と争った形跡なく殺害されているらしい。だとすれば犯人必ずしも腕力のある者ではなく、被害者と顔見知りであり、安心している被害者の隙を狙って比較的やすやすと殺したのかもしれない。ではやはり犯人は、死んだ税務署員の遺族ではなく、ふたりと親しかった文化人の中の誰かであると考えた方がよい。  あっ、と、村田は叫んだ。自分が「ついでに殺される」と限ったものではないことに気づいたからだ。犯人の真の標的は自分ではないのか。背筋を悪寒が走った。さっき刑事と話している時にちらと頭をかすめた何やら大変なことというのはこれだったのだ。恐怖で嘔吐しそうになったが空腹だから何も出ず、村田はぐええ、ぐええとからえずきをした。もっと怖がれとばかりに、串田左近の顔があらわれた。瑠美子がおれに心を残していることを恨み、おれの命を狙う。ありそうなことだ。歪谷幸一の顔が浮かんだ。彼もまた、おれの作品を貶《けな》したお返しとしておれが近隣ゆえによく知っている彼の私生活の中の負の要素を暴露的に書いたことを恨んでいる。彼の意地汚い日常についてはまだまだ書くことがあるし彼もそれを知っているのだ。おれを殺そうとしても不思議ではない。他にも、おれの知らない動機でおれを殺そうとしている奴が。  どかーん、と隣家または裏庭としか思えぬほどの近くに落雷があった。わあと叫び、小便を二、三滴洩らして村田は身をよじった。  絞り込まれた三十五人  町田美都の葬儀が営まれる日は午後から晴れて、弔問客も多かった。村田勘市が誘いあわせた望月源之輔と一緒に姥坂山の山頂近くにある瑞念寺までやってくると、受付など葬儀委員の中に顔見知りの文化人や姥坂市職員に混って、町田邸や市警で見かけた刑事たちの顔もあった。 「犯人が来るとでも思っているのかな」望月が言った。  文化人たちは何度も彼らの訪問を受けた様子で、親しげに話しあっている情景も見られた。境内には村田も名を知っている有名な画家から届いた多くの花輪が並んでいた。セクハラ市長の姿はなかった。  葬儀が始まり、読経があり、焼香がはじまった。姥坂市に住む重要人物がほとんど来たのではないかと思うほどの人数だった。欠席すれば犯人と思われるのではないかという心配でやってきたとしか思えない数であって、実際、生前の町田美都とはまったく無関係だった筈の者も来ていた。  葬儀が終ると、立ち去りがたい顔をして何人かが寺の門前に残った。村田をはじめ望月や市の文化振興委員会の真木継雄とその妻の加寿子、串田左近と瑠美子、ブティック経営者の宮本はるか、そして野口弥五郎の八人である。例によって恨めしげな顔つきをした歪谷幸一が通りかかり、仲間に入りたそうな様子を見せたが、村田を見て立ち去った。彼の足どりは極めておぼつかなげだった。病気なのかな、と、村田は思った。 「それじゃ先生方、いかがでしょう」立場上世話役を務めざるを得ない真木継雄が全員に言った。「少し早いが夕食ということで、どこかのレストランの個室を取りましょうか。それならば今の時間、これだけの人数でも席がとれます」 「個室。結構だね」ひとりだけ紋付、羽織、袴の野口老人が言う。「誰かに聞かれるとまずい話題にもなるだろうからな」  八人は他の弔問客に混ってだらだら坂を下り、坂下の「DIN−DON」というレストランに入った。ここの店員たちももちろん文化人たちとは顔見知りであり、誰の葬式かも知っているので、黒ずくめの集団にいやな顔をすることもなく彼らを十人用の個室に案内した。個室でありながらその部屋は大きなガラス窓で通りに面していて、弔問客たちが三三五五帰って行く姿が見えた。もし文化人の誰かが通りかかれば手招きして夕食に誘おうという真木継雄の心積りかも知れなかった。  それぞれが料理を注文し終えると、野口老人がおもむろに手帳を出したので、喋りあっていた連中はたちまち沈黙し、緊張して老人を見つめた。沈黙の意味がわからぬ者も、雰囲気の変化に驚いて口を閉ざした。  村田は瑠美子だけがちらちらと自分を窺っていることに気づいた。さらに串田が、そんな妻の様子に気づき、情緒的交流の有無を気にしてそれとなく自分と瑠美子の顔を見比べていることにも気づいた。なんてことだ、妻を奪われた者が奪った者より優位に立っている。村田はそう思い、ちょっといい気分になった。 「甥の報告によれば」野口老はやっと書き込んだ頁《ページ》を捜し当て、手帳を見ながら話しはじめた。「容疑者と目されている遺族百六十数人のうち、アリバイなどさまざまな理由からその人数は大きく絞り込まれ、残るところは三十五人となった」 「わっ」と、村田が叫んでテーブルに身を乗り出した。「絞り込み過ぎだ。そんなに絞り込んで大丈夫ですか」  村田の脅えかたに瑠美子、宮本はるか、真木加寿子の三人の女がくすくす笑った。 「海千山千の刑事たち何人もが調査してそう判断したんだから確かなんだろう。こういうケースで、絶対に犯人ではあり得ないという人物は、これで案外多いものらしいんだな。当然のことだが、この三十五人の氏名は教えてもらえなかった。ああそれから、この中には、遺族ではなく、死んだ署員の愛人だった女性がひとり、女性署員の許婚者《いいなずけ》だった男性もひとり含まれているそうだ。つまり警察は、遺族だけでなく、そういう人物まで調査していたということだね。そして警察は、この三十五人の中に犯人がいるとほぼ決定し、捜査を進める方針らしい」 「こわいよう」望月がまさに村田の心情を代弁し、皆がちょっと笑った。  村田は笑えなかった。「皆さん笑っていますがね、これがどんな恐ろしいことかわかりますか。絞り込まれた三十五人以外にも犯人はいるかもしれない。とすると、三十五人に捜査の焦点が向かっているのをよいことに、真犯人は今や自由自在に犯行を重ねることができるってものなんですよ」 「考え過ぎですよう。先生」  真木加寿子がかったるい口調で言い、何人かがあきれたという仕草を見せた。だが村田は被害者候補の文化人の中に真犯人がいるかもしれないという自分の推理を、さらに言い募って話すことだけはさし控えた。同席者の中に真犯人がいることを恐れたからである。それこそ虎の口に頭を突っ込むようなものではないか。  赤ワインを飲み、ビーフストロガノフを食べながら、村田の恐怖は次第に膨らみはじめた。この同席者の中の誰に真犯人の資格があるかを考え続けていたためだ。串田左近はもちろん、望月源之輔も、野口弥五郎も、犯人たり得る資格がある。瑠美子だって、もし串田左近が殺された場合は、邪魔な夫を殺し村田とよりを戻そうという動機の存在によって村田の中では一番の容疑者となる。村田はだんだん気分が悪くなってきた。 「あの、締切があるので、ぼくはこれで」  食べ終わるなり立ちあがった村田にちょっと驚いて、恐怖を胡麻化すためか狂躁的なまで陽気に事件の話をしはじめていた一同が彼を見た。瑠美子が、何か言いたそうにした。締切など気にしない村田であることを知っている望月が、いちばん意外そうな表情をした。そそくさと店を出ればすでに黄昏《たそがれ》。村田は近道の淋しい通りを家に向かった。  家の前まで来ると、門前の路上に男が立っていた。びくびくもので家路をたどってきた村田はふるえあがった。立ち止まった村田に男が近づいてきた。村田は声も出せず、足も動かなかった。だが男の顔を見て安心した。村田のこぼしたバージンオイルで転倒した、あの刑事だった。 「ああ。刑事さん。頭の方はその後、いかがですか」  刑事は無言で、しばらく村田を睨み続け、やがて重おもしく言った。「村田勘市。犯人はあんただ」  脳障害の刑事との対話 「あはははは。嘘。嘘。すみませんでしたねえ。小説家の先生だから、こんなブラック・ジョークもあるいは許してもらえるかと思いましてね」心臓をおかしくしてその場へうずくまってしまった村田を助け起しながら、刑事は笑ってそう言った。 「死ぬところだった」村田は刑事の手を振りはらい、玄関へと歩きながら言った。「転倒させた仕返しですか」  刑事はついてきた。「昨夜はひどい雷雨でしたねえ。わたしは思ったですよ。次に殺されるのは自分ではないかと脅えている先生がたは、この雷雨で恐怖が絶頂に達したのではないかとね。先生はいかがでしたか」 「楽しんでるみたいだね」村田は刑事を睨みつけながらドアを開け、しかたなく彼を招じ入れた。「何か話があるんでしょう。まあ入りなさい」  昨日来た刑事と同じソファに掛け、彼は周囲を見まわした。昨日の刑事よりも若く、体格は正反対で筋肉質だった。濃紺のスーツを着ていて、顔色は青白く、町田邸で村田を睨みつけた時のあの精悍そうな表情は失われ、今は弛緩しきった顔つきになってしまっていた。「先生は独身なのに、よく室内を整頓され、綺麗になさっている。本が山積みで書類が乱雑に散らばったデスク上、なんて情景を想像しておりましたが」 「女性的な潔癖さ。几帳面で小心。だから臆病。そんな連想が働きますか」村田は彼と向きあって腰掛けた。「申し訳ないが、ぼくは今疲れているので、コーヒーもお茶も出せません」 「象は臆病な動物です」刑事は手帳を出しながらのんびりした声で言った。「だけど非常に知能が高い。あと、臆病な動物ほど利口なようですね。犯人はどうでしょう。極めて利口だと思いませんか」 「容疑者として絞られた三十五人の中に、該当する人物がいるんですか。犯人は利口だとは思いますが、臆病とは思いません。なんたって連続殺人犯だ。むしろ非常に大胆なんじゃないかな」 「あのう、お話がよくわからんのですが」刑事が身を乗り出した。「三十五人とは何のことですか。警察が容疑者として絞った、というのはどういう人たちのことですか」  村田は異様な感覚に襲われた。この刑事は完全に痴呆化したのか。それとも野口弥五郎の言う「甥」というのは野口の願望的妄想による架空の人物なのか。税務署崩落の被害者の遺族たちは、実際には警察に於いて容疑者と看做《みな》されていないのではないか。 「いや。違う」村田はかぶりを振った。「ちゃんと新聞にも出ていたんだ。あなた、もしかして病院から出て直接ここへ来たのではありませんか。町田美都の葬儀でも見かけなかったし」 「あははははははは」刑事は発狂したような笑いかたをした。「整数a、bの差が整数mの倍数であるとき、aとbとはmを法律として互いに合同です。mが定まりますと、すべての整数はmを法律として、互いに合同なもの同士の集りいくつかに分けられます。その集りのひとつひとつは、mを法律とする剰余類です」 「悲しいなあ」村田は嘆息した。「たしかに文化人というのは社会にとって、ほとんど何の役にも立っていませんが、法律的にも剰余類とは、ちょっと言い過ぎでは」 「そんなことを言っているのではない」刑事は怒りはじめた。「わたしが天幕ヘルニアになって死ななかったのは、解剖的相互関係から受傷時の脳移動の反衝力によって前頭葉にのみ損傷が起ったためだ」  ああやっぱり脳障害なのだ、と思い、村田は気の毒になった。だがこの程度の論理的飛躍、情緒不安定は多くの文化人にも見られることではないか、と村田は思う。おれだって普通の社会人から見ればこれに近いのかもしれない。「あなたはぼくのお友達だ。あなたの論理的飛躍の能力は警察機構の中でも役立てるべきです。協力しますよ」 「前線に伴ってここのところ大気の成層が対流不安定になっていますね」刑事が庭を見て言った。雨が降りはじめていた。「激しい上昇気流が起りやすくなっていますから、今夜もまた雷雨ですよ」  ふた晩続けてか。村田がげっそりした時、ピカ、と強烈な白光が室内を満たした。 「来た」村田はとびあがった。 「わたしがいると、孤独と雷雨による恐怖がお楽しみになれません」刑事は手帳をしまって立ちあがった。「帰ります」 「あの」村田は一瞬、すがるような眼を刑事に向けたが、この刑事の狂気の恐ろしさを考え、引き留めるのはやめることにした。「さようなら」  強烈な稲光と落雷の轟音の中、刑事はかえって危険だからと傘をことわり、平然として濡れて帰った。  昨夜以上の激しい雷雨だった。その閃光と轟音は村田の肺腑をえぐった。村田はまた心臓がおかしくなり、恐怖で吐き気がし、ベッド上で顫え続けた。雷鳴の彼方から顔のない真犯人があらわれ、村田の周囲をゆっくりと徘徊し続けていた。雷雨は二時間も続き、村田はとうとうビーフストロガノフを全部|反吐《もど》してしまった。ベッドから跳び起きて洗面所に走ったり、恐怖のあまり屋内を駈けまわったりするうち、刑事との対話の影響もあって頭がおかしくなり、このままでは発狂すると思い、今度は発狂の恐怖に襲われた。あのおれのゲロゲロゲロゲロ。われらはmを法律とする剰余類。あははははははははは。  串田左近がやってくるぞ。おれを殺しにやってくるぞ。いや。案外親友の望月源之輔かもしれない。彼が来たらどうしよう。親友だから家に入れないわけにはいかんのだ。望月は彼が恨む誰かを殺す前に、まず一番の親友と皆から思われているおれを殺すことによって嫌疑を免れるのだ。激しい怨恨によって彼からは友情などというものは失われているのだ。いや。さっきの刑事が真犯人なのかも。よくまあ家に入れたりしたもんだ。  気がつけば朝であり、晴れていて、電話が鳴っていた。雨がおさまるなり眠りに落ちたようだ。痺れたような全身をのろのろと立ちあがらせ、デスクに寄って受話器をとった。 「まら寝ていたので、呂律《ろれつ》がはっきりしないと思いまふがどなたでふか」 「馬鹿ほど怖いものはない」望月源之輔の声だった。「いやまあ、えらいことだ。今朝がた発見されたんだけど、歪谷幸一氏が自殺した」  村田は大声で叫んだ。「犯人め。手口を変えやがったな」  この町は発狂している  だが、やはり歪谷幸一は自殺だった。通いの家政婦が朝一番にきて鴨居から兵児帯《へこおび》で首を吊っている彼を見つけ、警察に電話したのである。絞殺されてから吊るされたのでないことは、警察の検分で証明された。これらのことは望月からの電話のあと、間をおかずに次つぎとかかってきたマスコミの取材電話に逆取材して村田は知ったのだ。週刊誌の記者だという男とのこんな問答もあった。 「先生は歪谷さんと、ずいぶん仲が悪かったように伺ってますが」 「ああ。だけどぼくが殺したんじゃないよ」 「ええ。自殺というのは確かのようですからね」 「なんだか残念そうだね」 「あはははははは。とんでもない。自殺の原因について何か思い当られることは。先日来の連続殺人事件と関係があるでしょうか」 「あるだろうね。みんな次に殺されるのは自分じゃないかとびくびくしてるからね。そこへもってきて孤独と、昨夜の雷雨だ。あれで恐怖が限界に達したんだろう。可哀想に」 「可哀想」 「ああ。ぼくだって怖かったものね」 「でも先生は自殺なさらなかった」 「彼は奥さんを亡くしたばかりだった。ぼくの独身生活はもう三年になる」 「そう言えば、殺されたかたといい、亡くなったかたはすべて独身ですね」記者は気になることを言った。「じゃ、歪谷さんは最近、落ち込んでいた」 「一昨日もひどい雷雨だったろう。昨日町田美都の葬儀に来た時は幽霊みたいに蹌踉《そうろう》としていた。孤独と雷雨がこたえたんだろう」 「最近、天候が不順ですね。ぼくも雷が嫌いでまあそれはどうでもいいのですが。ところで先生は今度の連続殺人事件の最初の発見者ですが、犯人はやはり例の遺族の中の誰かだと思われますか」 「それをあまり書くと人権問題になるぞ」 「ところが先生、すでに今日発売の週刊誌、それにスポーツ紙、みんなでかでかと書き立てていますよ」 「早いなあ本当か。買ってこよう」  受話器を置き、郵便受の朝刊をポケットに入れ、村田は外出した。上空に取材と思えるヘリが飛び、道路を新聞社の車が走って行った。様子を見に歪谷の邸へ行ったりしようものなら取材陣に取り囲まれるに決っていた。村田は姥坂駅のキヨスクで週刊誌数冊とスポーツ新聞数紙を買い、「ムル」へ行った。朝食の時間が過ぎていてモーニング・セットはなく、村田はステーキを注文した。昨夜反吐して胃の中が空っぽだったのだ。  村田のコメントをもとにして「そして誰もいなくなった」との類似をセンセーショナルに書き立てている週刊誌を、文化人の誰かが犯人というところまで推理を進めているのではないかとひやひやしながら読んでいると、望月が入ってきた。 「いやまあ、セクハラ市長、連続殺人事件、今度は自殺、どこまで続くんだろうねえこの騒ぎ」彼は村田の前の席に腰掛けた。「歪谷幸一の家の前まで行ってきた。大騒ぎだ。どんちゃん騒ぎと言ってもいい。この町は発狂している」  ステーキが運ばれてきた。 「あっ。朝からなんてもの食うんだろうね。独身のくせに」 「あの雷雨が歪谷の自殺の原因だ。稲光で顫えあがり、ドカーンと来て衝動的に首を吊った」自分が昨夜反吐したことは無論言わなかった。  サンドイッチとコーヒーを注文してから、望月はにやにやした。「君も怖かったんじゃないのか」 「いや。むしろ、犯人が君である可能性に思い当った」と村田は言った。  望月が水に噎《む》せた。「がほごほげほ。雷と何の関係があるんだ」 「そして誰もいなくなった」とのアナロジイで文化人の中に真犯人がいるという推理をしたことを話そうとした時、真木夫妻が店に入ってきて、にこにこしながら村田の横に立った。 「ここにおられましたか。今、お宅までうかがってきたところです。実は町田美都先生の形見分けがありまして、村田先生にも貰っていただきたい品物があったのです」  実直な口調で真木継雄がそう言い、加寿子がなぜか宥《なだ》めるように続けた。 「可愛らしいお人形なんですよ。お留守だったから、門の裏側に置いてきました。ダンボール箱に入っています」 「あの人形か。いいもの貰ったな」望月が大声で言った。「ぼくは安物の壷だった」 「あの人形はすぐれものでして」と、真木継雄はけんめいさを見開いた眼にあらわして言う。「メモリー搭載したチップが入ってまして、こちらの言うことにも答え、学習もします。今は、ながいこと町田先生から話しかけてもらわなかったので、拗《す》ねて何も言わなくなっていますが」 「それはどうも」人形は不気味だから、あまり好きではなかったのだが、村田はしかたなく夫妻に礼を言った。 「南條郁雄の葬式には行くかい」真木夫妻が別のテーブルへ去ると望月がそう訊ねた。 「遠慮しとくよ。親しくはなかったからね」  いったいどんな人形だ。気になるので村田は手早くステーキを食べ終え、望月と別れて家に戻ってきた。門の裏側、植込みに隠すようにしてそのダンボール箱は置かれていた。いちばん長い辺は八十糎もあった。  リビングに持って入り、箱をあけて村田はのけぞった。ふっくら顔の少女で金髪、眼が青く白とピンクのアンチックのドレスを着たその人形は、町田美都そっくりだった。 「なんてもの形見に寄越すんだろうね葬儀関係者は。おれが町田美都の死に顔見たこと知ってるくせにさ。あっ。不気味だから他に引取り手がなく、それでおれに寄越したな」  ぶつくさ言いながら抱きあげると、なるほど人形はふくれっ面をして無言だった。持ち主が変ったことを教えなければならないのだろうか。リセット・ボタンはどこだ。  持ち主とは別の音声で話しかければいいのかもしれないと思い、村田はできるだけ遠くまで両手でさしのべた人形に大声で言った。「やあよろしく。ぼくは村田勘市。君はなんて言うの」  人形が答えた。「わたしは美都ちゃん。よろしくね」  そして人形は口を半開きにして微笑んだ。眼を見開いたままなので町田美都の死に顔そっくりになった。「あ」と言って、村田は人形をさしのべたまま、フローリングの床にへたへたと腰を落した。  美都ちゃん人形の視線  村田勘市はその美都ちゃんという人形を、椅子に掛けさせてリビングの隅に置いた。とても書斎になど置けたものではない。じっと見られていては不気味だし、たまに見るたびにわっと言って飛びあがっていては仕事にならないのだ。  原稿の続きを書く。住宅街の昼間は静かであり、しんとしていて不気味である。せっかく有線放送を入れているのだから好きなタンゴでも聞けばよさそうなものだが、そうすると今度は物音が聞こえず、不用心である。神経の昂ぶっている村田は何か物音がするたびに、ぎくっ、として聞き耳を立てる。音源を探して家の中をうろうろする。普段でもしている筈の音であり、たいていは音源不明のままで終る。  コーヒーを飲みにリビングへ行くと、センサーによってスイッチが入るらしく、美都ちゃんの首が村田に向く。そして村田の行く方へと首をまわす。監視されているようでもあり、何か言えとせっつかれているようでもある。 「やあ、美都ちゃん。元気かね」 「元気よ。勘市さんは」 「まあまあだね」 「元気を出してね」 「とても出ないよ」 「どうして」 「文化人がふたり殺されてひとりが自殺。殺人者は誰だか見当もつかない。自分が殺される可能性もあり、いつ殺されるかわからないんじゃ、怖くてさ」  美都ちゃんはしばらく黙ってから、あの町田美都そっくりの微笑をして言う。「殺される。自分が。いつ。元気を出してね。元気を出してね。わたしがついてるから」  村田はぞっとして顔をそむける。「ありがとう」 「どういたしまして」  夕刻、新聞社からの取材電話があり、話し終えて受話器を置くと背後で女の声がした。「こんにちわ」  瑠美子が立っていた。村田はわめき散らした。 「わざとチャイムを押さなかったな。心臓が止まるところだった。なぜだ。そんなにおれを吃驚させたいのか」 「だって、以前の自分の家だもの。チャイム押すのおかしいし。それにあなたが電話してる声、聞こえたし」彼女はソファに腰をおろし、重そうな手提げ袋をテーブルに置いた。  臙脂《えんじ》色のセーターを着た瑠美子が首に巻いている赤いネッカチーフを、よくまあこんなおぞましいものを巻けるものだと睨みながら村田は訊ねた。「突然、何の用」 「いつだったかしら。あなた久保さんに会ったことあるわね。わたしのお友達の。ご主人が貿易やっていて、中華の食材、たくさん送ってきてくれたの。あなた、中華が好きだから、作ってあげようと思って」 「おれが君の亭主だったら、君を昔の亭主のところへひとりでやったりはしないな。串田左近は君がここへ来ていること、知らないんだろうね」 「牡蠣《かき》油あるわよね」瑠美子は立ちあがり、手提げ袋を持って台所へ行きながら言った。「串田は知らないわよ。買物に行ったと思ってる。だってあなたは、あれからちっともうちへ来ないんですもの」  リビングに入っていくもとの妻。眼に馴染んだモス・グリーンのタイトのスカート。馴れ親しんでいたその尻や足をうしろから眺め、村田はピリピリする感電性の危険を感じた。別れた夫婦はよりを戻しやすいなんて言うが、おれを誘惑しに来たんだろうな。串田に知れたら殺されるかもしれない。まさかあの赤いネッカチーフでおれを殺すつもりじゃあるまいな。串田家なんかにふらふら行けるもんか。串田はああ言ったが、おれの来訪を喜ぶわけがないんだ。夫婦共謀しておれを殺すつもりだったらどうする。あっ油断するな。あとから串田が来るつもりかもしれない。瑠美子来てませんかあ。たははは。何かしてたら大変だ。重ねて四つなんてことになる。  机に向きなおり、原稿の続きを書こうとした時、去ったばかりの妻が大声を出して戻ってきたので村田は驚愕した。 「いやらしいわね。あなたいつからロリコンになったの。何よ何よあの人形は」  胸を押えしばらく気を鎮めてから、村田は瑠美子に向きなおった。「あのなあ。たとえおれがロリコンになったとしても、君から難詰される筋あいはない」 「あいつ、わたしから眼を離さないのよ。侵入者だと思ってるわ」 「センサーで動いているだけだ」 「あんなもの抱いて寝てるの。いやらしい」  村田はびっくりした。「抱いて寝たりするもんか。あれは町田美都の形見だ」 「抱いて寝てるんでしょう」 「今日貰ったばかりだ」  瑠美子がぶつぶつ言いながら台所へ去ったあと、村田はまた思った。よその家へ来て、なんでそこの主人を糾弾するんだ。  台所の物音が気になって原稿が手につかず村田はリビングに行った。隣接する台所の瑠美子が、来たなという表情でにやりとする。村田は椅子に腰掛けた。 「元気を出してね」と美都ちゃんが言った。  眼を丸くして瑠美子が振り返った。 「元気なんか、とても出ないよう」と、村田は美都ちゃんに甘えて見せた。 「怖いからなの」と、美都ちゃんが訊ねたので、村田は驚いた。  あははははははぁ、と、瑠美子が笑った。  その声に美都ちゃんは反応した。瑠美子の方を屹《きつ》として睨んだのだ。 「何よこの人形。ひとを睨んだわ」 「声がしたから振り向いただけだ」 「怖いのね。怖いのね。元気出してね。元気出してね」 「君がいてくれて助かった」しばし唖然として喋り続ける人形を見つめたのち、やはり茫然としている瑠美子に村田は言った。「この人形がこんなだとは思わなかった。何も知らずにひとりでいる時にこれをやられたら、たまったもんじゃない」 「怖いのね。怖いのね」 「お黙り」と、瑠美子が叫び、美都ちゃんは黙った。 「人形なんて、誰でも不気味に思う時があるのに、あなたみたいに臆病なひとがよく一緒にいられるわね」と、瑠美子は言った。「困ってるんでしょう。返したら臆病だと笑われそうだし、捨てたことを誰かに知られても困るし。あなた、やっぱりわたしにいて欲しいでしょう」  深夜の客の野卑な大声  中華料理を作って瑠美子が帰ったあと、懐かしい妻の残り香に悩みながら村田は食事をした。村田も料理はできるが、さすがに中華料理をこれほど手早く作れはしない。 「お黙り」  突然、美都ちゃん人形がそう叫び、村田はワインを吹いた。「がほげほごほ。やあ。ご免ごめん。『お黙り』なんて怒鳴って、すまなかったね。もう喋ってもいいんだよ」  このての人形はどうしてもこちらがご機嫌とりにまわってしまうものらしい。  目の前で立ち働いている瑠美子の姿態を見ながら、このからだが串田左近に抱かれていると想像すれば悩ましくもなったが、やはり怖くて自分が抱く気にはなれなかった。また来るつもりなんだろうな。ろくに話もしなかったが、最初は料理だけであっさり帰り、次第にいろんなことを話そうという作戦に違いない。 「抱けるもんか」と、村田はつぶやいた。 「わたしを抱いて頂戴」  美都ちゃんがそう言ったので、村田は首をすくめた。また不用意なことを言ってしまった。だが、人形がどんな意味で「抱く」ということばを使ったのかわからないので、彼のことばに反応したのか、最初から組み込まれていることばだったのかも不明である。かまってやらないと拗ねておかしくなるタイプの人形らしいので、しかたなく村田は美都ちゃんを抱き、膝に乗せた。 「怖いのね。元気を出してね」 「夜中に便所へ行けないのが困るんだよ」村田は悩みを美都ちゃんに訴えかけることにした。「怖くてさ。だから我慢するんだけど、いよいよ辛抱できなくなって、行こうとしても便所に誰かがいそうでさ」 「便所。誰かがいそう」 「うん。自分がいそうでさ。つまり我慢できなくなって先に便所へ行った自分と鉢あわせしそうでさ。それが怖くて便所の戸を開けられない」 「それが怖くて。ああ。勘市さん怖いのね。怖いのね」 「うん。それが怖くて。ああ。雨が降ってきたよ」 「雨。雨」 「また雷が鳴るといやだなあ。これじゃ飲みに行けないなあ」 「飲みに。元気を出してね」 「野口さんから警察の捜査の進捗状況を聞きたいし、望月にも会いたいけど、でも、雨じゃなあ」 「便所。飲みに。捜査の。ああ。元気を出してね」 「君は面白いね」 「雨なの。雨なの」  次第に美都ちゃんが不気味に思えてきて、村田は彼女をもとの椅子に戻し、ウィスキーの水割りセットを盆に乗せて書斎に入った。  一週間ほど前に出版社から送られてきた、歪谷幸一の最後の出版となったエッセイ集を読んでいるうち、彼の猜疑心による孤独感の深さが身にしみて感じられ、背筋がぞわぞわしてきた。歪谷のこの本には恨みがこもっているなあと思う。庭の木の枝葉が風雨でわさわさとざわめいている。二階に置いた大量の書物の重みで家がぎし、と鳴る。昼間新聞紙で叩き潰して屑籠へ入れたゴキブリがまだ生きていて、時おりガサゴソと動いている。ぼんとかすかに車のドアを閉める圧迫的な音がしただけで動悸がした。ここへ稲光と雷鳴が加わったらおれは自殺するだろうなあ、と村田は思う。  チャイムが鳴り、すぐに玄関のドアが激しく叩かれた。あっ。ドアの前まで入ってきやがった。インターホンで誰何《すいか》することもできないではないか。驚かせやがって。くそ。誰だこんな時間に。村田は腹を立てた。ドアの向こうで誰かが野卑な大声を出している。膝が顫えて、なかなか立てなかった。 「早く開けてくれ。早く開けてくれ」悲鳴まじりの声だった。  やっと足が伸びた。村田はよろめき立ってふらつきながら上り框まで歩き、裏声まじりの大声を出した。「誰だ」 「おれだ。望月だ。開けてくれ。早く開けてくれ」声が割れていた。  たしかに望月の声なので、村田はドアを開けた。望月は濡れそぼり、髪を乱し、いつもきちんと着ていたスーツはよれよれだった。彼は眼を丸くしていて、瞳孔が開いていた。 「わ。お前、点目になっている」村田はのけぞった。 「誰かに襲われた」望月は背中を丸めてのたくり込むと、自分でドアを閉めた。 「犯人だなっ」村田はあわてて鍵をかけ、いそいで書斎に戻った。 「もう少しで殺《や》られるところだったぞ」望月があとから書斎に入ってきて、受話器をとっている村田に訊ねた。「何してるんだ」 「警察に電話をする」 「ちょっと待て。襲われたと言っても、相手はおれの方へ近づいてきただけで、襲われると思ったのは、おれの、勘なんだ」  村田はのろのろと受話器を置きながら、憮然として望月を見た。「襲われたんじゃないのか」  望月は肘掛椅子に崩折《くずお》れた。「四つ辻で、横から出てきたやつが、おれに向かって歩いてきた。あきらかに、おれに向かってだ。おれが走り出したら、追いかけてきた」  村田は彼にタオルを渡した。「男か女か」 「男だと思うが、わからない。そのウィスキー、くれ」 「得体の知れないやつが徘徊している。せめて警察にそう電話しておいた方がいいんじゃないかな」村田は水割りを作ってやりながら言った。「だって、事件が連続して起っているこんな時だもんな」 「そうだな。知人だったのかもしれんが、もし知人なら、誤解を解くために、ここまで追って来る筈だもんな」望月は水割りを勢いよく飲んで激しく噎せた。「がほげほごほがほげこげこ。わかった。おれが直接電話する」 「凶器らしいものは持っていなかったか」 「わからん。そこまで観察している余裕はない。こっちへ来る、と思った途端に駈け出していた。心臓がとんで出そうだった」  この男も臆病だったのだ。おれはさほど恥じることはない。村田はそう思ったが、また疑念が起ってきた。もはや妻であろうと友人であろうと、安心できる状況ではなかったのだ。おれにドアを開けさせる口実として、追われたなどと言っているんじゃあるまいな。この、息を弾ませているのも演技か。いつまでも電話しようとしない望月を、殺人者を見る脅えた眼で村田は見つめた。  君は何を顫えているか 「で、いつ殺すつもりだ」  そう言った村田の声で、望月も村田自身も飛びあがった。 「なんだと」村田を睨んだ望月の眼は、もはや白眼に近かった。 「違う違う。いつ電話するつもりだ、と言うつもりだったんだ。早く電話しないと、挙動不審な、その、徘徊している、男だか女だかが逃げてしまうだろうが」 「そうだな」うっそりと立ちあがり、望月はのろのろと村田のデスクに向かって掛け、受話器をとった。  文化人の話し方は、事実を正確に伝えようとするよりは自身の感覚に忠実に語ろうとするので、まことにまどろっこしい。おれもこんな喋り方をするんだろうな、一一〇番通報をしているとはとても思えない望月の話しぶりに、村田はいらいらしてそう思った。 「見まわりに来るってさ」やっと話し終え、望月はまた村田と向きあって掛けた。「そりゃあ、見まわりに来てもらわなきゃな。おまわりって言うぐらいだもんな」  警察へ電話した以上おれを殺すことはあるまいと村田は安心した。「雨の中を、どこへ行ってたんだ」 「昨日、変なことを言ったな」望月は村田を睨みつけた。「おれが犯人である可能性だって。どういうことだ。姥坂ホテルのスカイ・ラウンジで飲んでいて、雨が降ってきたから帰ろうとしたんだが、気になるのでここへ寄ろうとしてまわり道をした。そしたら変なやつに出会った。あんなところでおれを待ち伏せする筈はないんで、あれはこの家へ来てお前を襲うつもりだった人物に違いないぜ」  脅かされた報復のつもりで脅かしているんだろう、そう思おうとしたが、村田は望月の言う通りかもしれないと思って脅えた。 「君が犯人である可能性だけじゃない。犯人が文化人の中の誰かである可能性を考えたんだ」村田は顫える声で自分の考えを語った。「つまり君にだって、まだ殺してはいないが殺したい人物がいるのかもしれない」  望月は考え込んだ。「変なこと考えたな。だとすると、野口弥五郎氏がいちばんあやしいんじゃないかね。あの人がわれわれの疑いを、犠牲になった税務署員の遺族へと誘導した。おれたちを安心させ油断させるためだ。市警にいる甥っ子という人物が本当に存在するかどうかもあやしいもんだ。おい。君は何を顫えているか」 「串田左近は瑠美子のことでおれに嫉妬しているから、彼にはおれを殺す理由がある。君だって顫えてるじゃないか」 「濡れた上に、腹が減った」と、望月は言った。「何か食うものはないか。家に帰っても何もないに決ってる」 「中華料理を作ったが、だいぶ残っている」瑠美子が来たことは言わなかった。  ふたりはウィスキー・セットと共にリビングへ移動した。 「瑠美子さんのことでなら、むしろ君に串田氏を殺す理由があるだろう。何てったって瑠美子さんを奪われたんだものな。おや。美都ちゃんじゃないか。こんなところに置かれているのか。君は串田氏を殺る前にもう二、三人殺す気じゃないのか。おれとかさ」 「レバ韮炒《にらいた》めと酢豚だ。八宝菜はこれだけしかない。君が殺したい人物というのは知らないが、その前に殺しやすい人間二、三人を殺すとすれば、やはりおれだろ」  ふたりは食卓をはさんで睨みあった。 「怖いのね」 「ああびっくりした。見ろ。人形にまで臆病ぶりを見透かされている。もうよそうや。お互いそんな殺人鬼になれるタマじゃないよ」望月は猛然と中華料理をむさぼり食いはじめた。「君にこんな才能があるとはな。料理教室に通っているおれの女房より上手いじゃないか」 「その後、野口弥五郎氏には会ったかい」 「雨なの。雨なの」 「そうだよ。うん。捜査の進展はないけど、容疑者たる遺族ら三十五人の顔写真を手に入れようと苦心しているらしい。誰かもうひとり殺されると、容疑者の数はもっと減るんだろうね」 「そのひとりは君かもしれんよ」 「君かも」 「怖いのね。元気出してね」 「おれはさっき、歪谷幸一が自殺した気持になりかけていた」と、村田は言った。「恐怖が限界に達すると死にたくなるようだな。そして、恐怖も死と同じように、孤独であればもちろんのことだが、いかに周囲にたくさん人がいていかに賑やかであっても、むしろそれ故にこそ忘れることができない」 「ああ。忘れることが。お黙り」 「何だい、今の『お黙り』ってのは」 「実は」しかたなく村田は瑠美子が料理を作りに来たことを話した。「瑠美子が喋り続ける美都ちゃんにそう怒鳴ったんだ」 「やばいぜおい」望月は背筋を伸ばし、眼鏡を光らせた。「料理が旨すぎるからおかしいと思った。串田氏は知らないんだろう。まさか瑠美子さんと何かしたんじゃあ」 「してなーい」村田は吠えた。 「わたしを抱いて」  望月は驚いて美都ちゃんを見た。「この人形、学習能力があるんだったな」 「変な想像はやめろ。『抱いて』というのは人形に最初からプログラムされた科白《せりふ》に違いないよ」村田はしかたなく美都ちゃんを抱いて膝に乗せた。  望月は疑わしげに村田を睨んだ。「今頃、瑠美子さんがここへ来たことがばれて、まあそういうことは夫婦の間ではすぐばれるものなんだが、夫婦喧嘩してるかもしれない。だとすると串田氏が激怒してここへやってくる可能性も」 「やめろよ」 「怖いのね。ああ。怖いのね」 「変なことば憶えたなあ。君がいつも怖い怖いと言ってるからだな。御馳走になった。帰らなきゃ」望月は立ちあがった。「電話を貸してくれ。駅前のタクシー会社に電話する」 「タクシーでか。たった三、四百米しか離れてないじゃないか。傘なら貸してやるぜ」  望月は顔中を口にしてわめいた。「お前さんはなあ、自分ならその三、四百米、歩いて帰れるっていうのか。この暗い、雨の中の夜道を」  ドア・チャイムが鳴った。ふたりは飛びあがった。「来た」「串田だ」  だが、来たのはパトカーの警官たち二人だった。望月は彼らに、不審な人物から追われた状況を説明したのち、パトカーに乗せてもらって帰っていった。  思いがけぬ乙女の来訪  恐怖とは、なぜ自分がそれに恐怖しているかを悟れば雲散霧消してしまうものなのだろうか。  村田勘市の友人に里見という経済学者がいる。彼は子供のころ、パン屋だった自宅の厨房でパン焼き職人がパン粉を練りながら鼻をほじるのを見て以来、パンが嫌いになり、食えなくなった。成人してもパンは嫌いだったが、その原因を彼は忘れてしまった。それゆえに彼はパンを恐怖するようになった。単純な原因で自分がパンを恐怖するようになったとは思えず、何か哲学的な深い理由があるに違いないと思ったからでもあった。彼は聡明だったので精神分析を受けるまでもなく、ある夜見た夢を自己分析した結果、パン嫌いの原因となった事件を思い出した。それ以来、彼はパンが食えるようになったと聞く。  しかしそれは恐怖全般に関して言えることではあるまい、と、村田は思うのだ。殺されるかもしれないというのは現実の恐怖であって、原因は連続殺人事件として目前にあるのだ。自分が自殺するのではないかという恐怖も同様である。何しろ自分と同じ恐怖によって自殺した人物がいるのだから。強いて言うなら犯人が不明であることが恐怖を倍加させる原因なので、それが取り除かれれば恐怖は霧消する。しかしそれは村田の精神内容とは無関係だ。  村田の中では、自殺の衝動が起るのではないかという恐怖が、新たに加わっていた。歪谷幸一が死んで以後、雷雨は襲ってこない。もし今夜あたり、突然、稲妻と雷鳴がやってきたら自分は恐怖で自殺するかもしれない。どんな気持で自分の心は自殺に向かうのだろう。単に、こんなに怖い目に会うのなら死んだ方がましだというだけで自殺したくなるのだろうか。それとも、その時になってみなければわからない異様な衝動が突発的に訪れるのか。  そもそも恐怖とは何か、それをもっと考えなければならない。なぜなら、いちばんの問題が過度の恐怖によって生活に支障を来すことだからだ。外出すれば犯人に尾行されているのではないかという恐怖に襲われ、買物にも行けない。家にいても侵入者が怖いから仕事にならず、物音が聞こえなくなるのでテレビを見て気晴らしすることもできない。ただ脅えているだけでは何も解決しないのであり脅えるだけ損なのであって、だからまず恐怖を払拭して事にあたることがだいじだ。  望月源之輔が何者かに追われて逃げ込んできた夜の翌日、村田は買物に出た。あまり出歩かず、なるべく家にいようとしたら、食料品を買い込んでおかなければならない。昼間だからといって油断はできなかった。ひと気のない道路で、いつ犯人に襲われるかわからなかったし、犯人といってもそれは顔見知りの人間かもしれない。できるだけ早く駅前大通りへ出る道順を選んで歩き、駅構内のマーケットに入った時はほっとした。 「村田先生」  しらす干しを買っている時、背後から野太い声をかけられたので村田はちょっと凝固してからゆっくりと振り返った。顔見知りの、市立図書館の館員だった。肥満した巨体に似合わぬ愛嬌のある丸顔で、彼は笑っていた。 「先生。今夜の会合、お忘れなく」 「あ。思い出した」毎週一度、図書館で三、四十人の小さな集りがあり、今夜は村田が講師として招かれていたのだ。「今夜だったか。そうでしたよね。はいはい。必ず行きますから」 「ああ。お眼にかかれてよかったあ」八杉というその館員は、ほっとしたように大声を出した。「あの、六時からなのでよろしく」 「はいはい」  六時からだと帰りは八時くらいになるだろう。タクシーで帰るには近すぎるが、誰か送ってくれるのだろうか。そんな心配をしながら両手にどっさりの食料品を提げて家に戻ってくると、玄関先にひとりの女子高生が紙の手提げ袋を持って立っていた。薔薇の花を手折った三人の娘の中の、いちばん村田好みのあの娘だった。 「おお。汝、薔薇の乙女よ」 「すみません。インターホン押したんですけど、返事がないので、壊れてるのかと思って勝手に入って、ドア叩いてたんです」 「あっ。いいのいいの。お入りお入り。いやまあよく来てくれたねえ」村田は浮き浮きして娘を家に入れた。成熟しきっていない乙女の、バニラに似た甘やかな芳香に彼は陶然とした。「おっ。独身のぼくの家で二人きりですよ君。ドアには鍵、かけないでおこうね」 「先生のお家と知らなくて薔薇を取ったりしたんです。わたしは先生を見てすぐわかったんだけど、あとの二人は先生を知りませんでした。それで」 「まあ、そこへ掛けて、掛けて」リビングには朝食の食器類が散らばったままなので、村田は彼女を書斎に通した。「こんなつまらん作家をよく知っていましたねえ。はは。コーヒーでも飲みましょうね」 「先生あの、今日はお詫びに」 「いいからいいから」コーヒーメーカーにたっぷり作ってあったコーヒーをふたつのカップに注いで戻ると、女子高生は興味深そうに机の上や書棚を眺めまわしていた。名前を聞くと「小林美奈」と答えた。三点セットで向き合うとたちまち村田は彼女のタータンチェックの短いスカートのため眼のやり場に困ることとなった。おまけに素足だから尚さら悩ましい。小林美奈は男と三点セットで向き合うなどといった状況は初めてらしく、まったくの無警戒であり、無邪気そのものである。 「先生。これ」彼女は紙袋から包装紙にくるんだチョコレートの小さな箱を出した。 「ありがとう。おっ。ゴディヴァのチョコレート。ぼくの大好物。ちょうどいいから、コーヒーと一緒に食べましょうね」 「あの子たち、だいたい小説を読まないんです。だから先生のことも知らなかったの。わたしは読んでいたけど」 「あっ本当に。いやいや、君のようなタイプの美しい乙女にこそ知性が宿るんですね。おほほ」 「でも、あの二人、あとから来るかも知れません。クラブ活動で少し遅れるので」  さっ、と、村田は緊張した。小林美奈は首にネッカチーフをしていた。短いスカートなどでおれをたぶらかし、女ひとりだからと油断させておいて、あとからもう二人来て、突然三人で襲いかかってきておれを絞め殺すつもりでは。しまった。余計な気遣いをして玄関のドアの鍵をかけていないのだ。三人とも実は死んだ税務署員の遺族であり、この女子高生グループこそ真犯人ではないのか。  ハイデガー恐れの分類  突然態度ががらりと変って無口になり、不機嫌になってしまった村田に驚き、小林美奈はコーヒーを飲み終えるなりそそくさと帰って行った。「あの先生おかしいよ」と、友人に言ってるだろうなあなどと思い、村田は自分の臆病さに腹が立った。あんな可愛いガールフレンドをつまらぬ恐怖ゆえにあっさり失ってしまった自分に愛想が尽きた。なんでおれはこんなに臆病なのだ。このままでは社会生活にも支障をきたすのではないか。この自分のあまりの臆病さ、その原因をなんとか突き止めなければ、村田はそう思った。  たしかハイデガーが「恐れ」について何か書いていたな。そう思い、村田は二階の書庫へ行って「存在と時間」を捜し出し、書斎に持っておりた。 「恐ろしがる傾向」とは、ハイデガーによれば、「情状的な世界内存在のまどろみつつある可能性としての恐れること」なのだそうだが、突然ここだけ読んでも何のことだかわからない。また「恐れが恐れる理由は恐ろしがる存在者自身、つまり現存在である」と言われても、自分が存在するからこそ恐ろしがることができるというのは当然であって、何の解決にもならない。  興味を惹いたのは「恐れ」の分類だった。熟知した親しいもので、脅威を及ぼすようなものが突如としてあらわれた場合は「驚愕」であり、未知のものが近づいてくる場合、その接近してくることが有害性を発散させているので、つまり「出くわすかもしれないが出くわさないかもしれない」からこそ恐ろしいので、これは「戦慄」であり、その未知なものが突如性をともなって出現した場合は「仰天」である、ということになるらしい。  最初、町田美都の死に顔で腰を抜かしたのは、「驚愕」ということになるのだろうか。だが町田美都は熟知した親しいものではあるが、脅威を及ぼすようなものではない。むしろ「死」という有害性のあるものが、突如性をともなって出現したから「驚愕」したのだろうか。それとも「死」は自分にとって未知であり未経験であるから「仰天」したことになるのだろうか。  二度、妻に声をかけられて吃驚したが、あれはまさに「驚愕」であったろう。「妻」という、熟知した親しいもので、脅威を及ぼす可能性と有害性を持つものが、突如性をともなって出現したからだった。そうか。妻が突然出てきて驚いた時は仰天してはいけないのだ。驚愕すべきなんだ。小説では今後そう書き分けることにしよう。  自分が雷雨で恐怖し、歪谷幸一が自殺したのは「驚愕」「戦慄」「仰天」すべてによるものかもしれないな。雷雨という熟知したものが稲光と轟音という突如性をともなっていたから「驚愕」したのでもあり、落雷による「死」という未知なるものが次第に「接近してくるかもしれないが、してこないかもしれない」ために、つまり「素通りするかもしれない」ことによって、恐れを減少させたり消失させたりするのではなく、逆に「増大」させるために「戦慄」したのかもしれない。またそれが閃光や雷鳴という突如性をともなっていたからこそ「仰天」したということにもなる。してみれば雷というのは、恐れのすべての「存在可能性」を生じさせるものであって、もしかしたら世の中でいちばん怖いものなのかもしれない。  望月源之輔が誰かに追われたと思って恐怖したのは、未知なる「共現存在」つまり他人が接近してきたから「戦慄」によるものということになるが、望月にしてみれば相手が突如性をともなって現れたように思えたかもしれないのでその場合は「仰天」ということにもなる。  税務署員の遺族たちを恐れるのはそれらすべてが未知の人物だからであり、「襲ってくるかもしれないが、襲ってこないかもしれない」という可能性のためにますます怖く、それが戦慄させるのであろう。あの女子高生を恐れたのも接近してくる彼女に内在する遮蔽された恐ろしさゆえであり、やはり戦慄なのであろう。では、その中の誰かが真犯人かもしれない文化人たちを恐れるというのはどうなるのか。  ここまで考えて、村田は馬鹿馬鹿しくなった。こんなことを分類してどうなるんだ。恐怖がおさまるわけではない。また、こんなことをいくら学んだとて例の連載エッセイに書くべきほどのものでもないのだ。  あれからほぼ一週間、そろそろ週刊誌の連載を書くべき時になっていたのである。だがそれより先に、今夜の準備をしておかなければならない。村田勘市に講師を頼むため市立図書館は彼と同世代の作家たちを今夜の集りのテーマにしてくれていた。だから準備というほどのものは不要だが、最初は何十分か講義をしなければならないので考えをまとめておく必要があった。そのあとの質疑応答になればもう自由自在であろう。  何人かの代表作をリストにし、彼らの文庫本の解説をななめ読みしてから、村田はざるそばを作り、買ってきたエビの天麩羅をひとつ乗せて食べ、歯を磨き、一応はリキッドで髪を撫でつけ、クリーニングから戻ってきたチョコレート色のスーツを出し、ストライプのネクタイをした。やや古風な顔立ちなのでこういう服装もかなり似合うのである。  黄昏どき、道路には勤めから帰宅する何人もの人影があった。市立図書館は駅からまっすぐ伸びた大通りから少し入った場所に公民館や児童館と並んで建っていて、そこへは近道も可能だったから村田は徒歩八分で到着した。午後五時五十五分、煌煌と明りのついたホールはすでに聴衆で埋まっている。老齢の男性と中年以上の婦人が多く、あとは大学生や高校生と思える若い男女がほんの数人だった。姥坂市在住文化人が催したり出演したりする個展やイベントには必ず数人は顔を見せる筈のいつもの常連の文化人たちは、なぜかひとりも来ていなかった。  最初にあの八杉という館員が立ち、亡くなった町田美都画伯の親族から画集など多数の蔵本の寄贈があったこと、図書館の今後の事業計画、今まで続いてきたこの集りの歴史と意義などについて喋ったあと、村田を紹介した。村田は小さな演壇に立ち、友人でもある同世代の作家三人について、それぞれが持つテーマの同時代性や社会的基盤、さらに自分も含めたそれらの世代の独自性について、自らの視点で三十分ほどを語った。マイクはなかったが、よく反響するホールで声はよく通った。  質疑応答の時間となり、最初に手をあげたのは三十歳前後の男性だった。色が黒く眼が鋭いその細おもての顔は、なんとなく凄みがあった。くたびれた地味なスーツ姿であり、村田は彼を、姥坂市の役所関係の者であろうと推測した。 「出雲と申します。私はあの、崩落した税務署の犠牲となった署員の遺族です。のっけからこういう質問で、たいへん無礼であることは承知しておりますが、ここにいる多くの人が知りたがっていることと思いますので、敢えてお訊ねします。先生は今度の、この市における文化人の連続殺人や自殺などについてどうお考えでしょうか。また、殺人事件の犯人が、あの崩落した税務署員の遺族であろうとする憶測などについて、どうお思いでしょうか」 「待ってください」最前列にいた八杉が慌てた様子で立ちあがった。「出雲さん。ここは文学を考える場であって」 「わかっています」八杉とは顔なじみらしい出雲という男が八杉に向きなおり、彼を睨みつけた。  危機は突然やってくる 「ぼくが聞きたいのは、人の生命を軽視してまで保護を訴える文化財というものが、そんなにだいじなものなのかどうか。文学とは関係ないかもしれないけど、少なくとも文化には関係があるでしょう。それに八杉さんだって許婚者だった多加子さんを、税務署員だったあの多加子さんを、建物の崩壊で失っているじゃないですか」 「それを村田先生だけに質問するのは、先生だけを責めているみたいで、おかしいでしょう。建物の保存を訴えたのは村田先生だけじゃないし、実際に保存を決めたのは姥坂市なんだから。それに君だって、その姥坂市の職員じゃないか」 「ぼくは保存に反対した。あの建物の危険性をいちばんよく知っていたからだ、しかし文化人たちの発言が市の上層部の」  この男は税務署員だな、崩落の際に死を免れた生き残りに違いない、そう思い、村田勘市はものも言えず、立ったまま腰を抜かした状態だった。ただ唖然としてふたりのやりとりを聞いているだけだった。糾弾される危機が突如出現して迫ってきたと思い、膝が顫え出した。ただ、ここで醜態をさらしては格好が悪いという自覚だけはあった。彼は椅子が背後に置かれていることを知っていたので、ゆっくりと腰をおろした。  八杉と出雲の口論が続き、聴衆がややうんざりしたのか、事態の収拾を求める眼で村田を見はじめたので、彼は言った。「逃げる者道を選ばず、じゃなかった、別段逃げるわけではないのですが、あの建物の保存に、ぼく以上に熱心だった人は沢山いて、その人たちの中でも最も熱心だった三人は、みな殺されるか死ぬかしているんですよね」そう言ってから村田は、この場ではむしろ逆襲した方が有利だと気づき、殺人の真犯人へと話題を向けた。「そう考えると税務署員の遺族が犯人という説も、強《あなが》ち根拠がないわけじゃありません」 「そんなことを言っているのでは」  出雲があわてて立ちあがりかけると、ひとりの老人が一喝した。「先生の話を聞きなさい」  出雲がしぶしぶ腰を掛け、村田は続けた。犯人の推理に話を転換させて行き、おのれの責任を糊塗しようと考えたのだった。「もちろん税務署員の遺族を犯人に見せかけようとする犯行である、ということも考えられますね。ここは文学を論じる席なので、この事件を推理小説的に考えて見ましょう」  そして村田は時間稼ぎの手段として、自分が考えていた犯人イコール文化人説を、A・クリスティ作品の引用も含めてながながと披露した。出雲を除き、ほとんどの参加者は大いに笑って村田の珍説を楽しんだようであった。 「いやあ。座が白けるところでした」質問タイムの終りを宣言し、集りを強引に閉会してしまった八杉が、ほっとした表情で村田に言った。「いやな思いをさせてすみませんでした。あの出雲というのは市の土木課に勤めていて、自分が建物の保存にけんめいに反対したのに聞き入れられず、崩壊で税務署員だった父親が死んだので、その罪悪感があって鬱屈やらこだわりやらをあなたがたに向けているんです」 「江戸の仇を長崎で。あはは。それは迷惑ですね」三三五五帰っていく参加者を見ながら村田は笑った。だがまだ難を逃れたわけではないと思い、気は張り詰めたままだった。この八杉とて許婚者を失っているというではないか。それにあの出雲はまだ帰ろうとせず、自席に掛けたまま村田を窪んだ眼の底から睨み据えているのだ。 「ところで、この集りの世話人だけで、先生をご夕食にご招待しようと言っているんですが、ほんのちょっと、おつきあい願えませんか。すぐそこの韓国居酒屋で『鳳凰吟』という店です。ご存じですか」 「鳳凰吟」は知っていたが、まだ行ったことはなかった。一度行きたいと思っていたし、夕食の用意を何もしていないこともあって、村田はうかうかと誘いにのってしまった。  会の主立った連中というのは図書館の職員や、役員である主婦たち十数人だった。彼らにわいわいと取り巻かれて村田は表通りのビルの地下にある「鳳凰吟」へと移動した。  韓国風の飾りつけで民謡が流れている「鳳凰吟」の広い店内には、壁際に掛け心地のよい造りつけのソファがあり、村田がそこに座ると全員が椅子に掛けたり、カーペット敷きの床に腰を据えたりして彼を取り巻いた。飲み物や食べ物を賑やかに注文するさなか、村田は少し離れた席にいる出雲に気がついた。 「わっ。あいつがいる」  思わずそう叫んでしまった村田に、八杉や周囲の主婦は困ったような表情を向けた。 「あの人、ついてきてしまったんです」と、主婦のひとりが言った。「先生が気になさるなら、帰れと言いましょうか」  八杉がそう言ったので村田は思わず尻を浮かせた。「尚さら恨まれてしまう。いいよいいよ。何も言うな」  青島ビールを飲み、カルビクッパやユッケビビンバを食べながらも、村田はうっそりとひとりで飲んでいる出雲が気になって、雰囲気を楽しめなかった。それに気づいたらしい誰かが進言したらしく、出雲が席を立ち、村田の前へ詫びにやってきた。 「先生。先程は失礼しました」 「いいんだ。いいんだ。君、ひとりで飲んでいるみたいだから、まあここへ座りなさい」  ついそう言ったのが失敗だった。「もう失礼なこと言うなよ」と八杉が釘を刺しているにかかわらず、村田の前に座り込んだ出雲は酔うにつれ、にやにや薄ら笑いを洩らしながら愚痴をこぼしはじめた。 「おれあの時、出張だったんだよな」じろりと、うわ眼で村田を見た。「親の死に目に会えなかった」 「あんただけじゃないのよ。家族が死んだ人は」と、図書館員の女性がたしなめた。  悪いことには少し酔った八杉までが、許婚者のことを思い出し、愚痴をこぼし、泣きはじめた。「おれは、だから未だに独身なんです」 「まあ。愛してたのねえ」と、同情した主婦が言う。  村田は居心地が悪い上、この出雲や八杉が犯人ではないかと思えてきて次第に胃が重くなってきた。他にも死んだ税務署員の遺族がたくさんいるように思えはじめ、このままでは吐くか、悪酔いしそうだと思い、彼は立ちあがった。「あの、ぼくはそろそろ」 「ふん」と、出雲が鼻を鳴らした。「帰りますか。そうですか。文化人皆殺しですか。そして誰もいなくなった。ふん。笑わせるな」 「やめなさい」男性の図書館員が怒鳴る。 「せ、先生。先生。すみません」無理に作った笑顔で八杉が立ちあがり、村田に何度も頭を下げた。「お見苦しいところを。ご不快。まことに。ええと。誰かに送らせます」 「いや。いいよ。いいよ」村田はあわてて断った。もう誰も、信じられなくなっていた。送ってくれる者に殺害されない保証はない。  文字通り逃げるように店を出た。暗い夜道をひとりで自宅まで戻らねばならない。表通りにさえ、もうひと影は少なくなっている。村田はぶるぶるぶると顫えた。くそ。おっそろしい目に会わせやがった。なんて連中だ。このこと、書いてやるからな、くそ。書いてやるぞ。 「先生」と、背後で女の声がし、村田はひっと言ってのけぞった。  宮本はるかが立っていた。  先生あなたは病気です 「あっ、寝耳に水、じゃない、地獄で仏」村田勘市は宮本はるかの突然の出現にも妻が出た時のようには驚愕せず、ほっとして気の緩みを覚えた。彼女の家は近所なので道連れができたと思い、安心したのだ。「もうブティックは閉店ですか」 「青い顔ですね先生」夜目にも白いスーツ姿で、片手に買物のビニール袋を提げたはるかは、村田の顔をじろじろと見た。「今、お店を閉めてきたところよ。何顫えてらっしゃるの。何かあったの」 「じゃ、これからご帰宅ですね。ありがたいっ。ご一緒させてください。怖いことと、いやなことがありまして」 「世界はもう怖いことと、いやなことでいっぱい」はるかは村田と並んで歩きはじめた。 「先生お夕食、何か食べてらしたの」 「ああ。あなたはお勤めがあったから、ご夕食、まだなんでしょうね。一応は『鳳凰吟』で食べたんですが、はて、食べたと言えるのかどうか」酔いは醒めていたし、満腹でもなかった。「すずらん通りへでも戻って、何か食べましょうか」  だがふたりはもう住宅街への通りへ折れ、街灯がほんの柱の根もとだけを丸く照らしているだけの暗い坂道を上りはじめていた。 「いいえ」はるかが村田の腕に手をまわして言った。「わたし、おいしいお惣菜を買ってきたの。家に帰って、ひとりで食べるつもりだったけど、先生のお宅で一緒に食べましょうか」瑠美子がいる時しばしば訪れたはるかだったが、村田が独身となってから彼女が家に来たことはもちろん一度もない。 「あっ。はるかさんの匂いだ。はるかさんはいつも、いい匂いだなあ」村田は宮本はるかを妻の友人としてではなく、はじめて女として意識した。「そうして下さい。ハムや鰯の酢漬けなど、ちょっとしたおつまみと、いい赤ワインもあります」  一緒に食事をし、赤ワインを飲み、それからどうなるのか、ということを村田は当然考えた。ちょっとわくわくし、いつもの軽口がやたらに出た。はるかも調子をあわせ、中年男女は笑い転げながら坂を上った。  しばらく前までの恐怖が嘘のように消えていた。それゆえにこそ、おれは油断しているのではないかという思いが村田の脳裡をかすめた。宮本はるかという道連れで心丈夫になってはいるものの、たかがかよわい女性ひとりではないか。本来、むしろ自分が護らなければならない立場なのだ。さらに、この宮本はるかとて油断ならぬ存在なのではないか。たちまち村田は恐怖だけに思考を奪われてしまった。推理小説では、最も犯人ではなさそうな人物が真犯人であることが多く、また、事件とは直接かかわりのない人物が真犯人であったりする。推理小説において真犯人は意外な犯人でなければならないからだ。ではこの宮本はるかはどうかというと、そのふたつの条件をみごとに満たしているのだ。動機など、どうにでもなり、誰もが伏線と思わないような伏線を前以て二、三張っておけば読者は納得するのである。家にやってきた宮本はるかは赤ワインで酔った村田に色仕掛けなどの手管《てくだ》を使って油断させ、隙を見すまして絞殺するのだろうか。いや。いかに酔っているとはいえ男を絞殺するのは女の手にあまるから、ワインの瓶か何かでまず後頭部を殴打して気絶させた上の絞殺となるのだろうか。  急に黙ってしまった村田にはるかは奇異の眼を向けた。「先生。どうしたの。めまいがするの」 「赤川次郎という推理作家がおりますが」村田は、腕からそっとはるかの手をはずして言った。「彼は犯人を誰か決めないで書きはじめる。話を面白くするにはその方がいいようで、それが彼の人気の秘密かもしれません。そしていよいよ最後になってから、いちばん犯人らしくない人物を犯人にして意外性を出すそうです。つまり誰だって犯人になろうとしてなれない人物はいない。誰だって犯人になれるのです。あなただって犯人かもしれないわけです」ちょうど自宅の前だった。村田は直立不動の姿勢で、宮本はるかに向きなおった。「残念ですが、ここでお別れさせていただきます」 「顔が歪んで、ぶるぶる顫える蒼い唇が引き攣《つ》っていらっしゃるわ。人相が恐怖で変ってしまってらっしゃるわ」はるかは驚きあきれた表情で立ちすくんだ。「先生。あなたは病気です。早くお医者さんに診てもらわないといけませんわ。この間瑠美子さんが先生を訪ねられた時も、先生の様子がおかしくて、瑠美子さんまで警戒なさってる様子だったと彼女からうかがいました。それは思い過ごしだろうと言ってわたし笑ったんだけど本当だったのね。人間は恐怖から精神分裂病になります。すぐ精神科のお医者さんに」  村田は歌い出した。 「叱ァらァれェてー  叱ァらァれェ〜てー  あのォ子ぉはァー町ィまァでー  お使いィ〜にー」  悲しげに村田を見つめて佇《たたず》む宮本はるかの前に不動の姿勢で立ち、夜空に声をはりあげて、寂寞たる感情と、まだ恐怖を大人たちによって払拭してもらえた幼年期への郷愁を籠め、彼は「叱られて」を一番の最後まで歌った。 「こんーとォー きつゥねェ〜がー  なきゃァせェーぬか〜」  ぽつん、と一滴の雨が村田の鼻に当った。  歌い終り、村田は深ぶかと一礼した。「では失礼します。おやすみなさい」 「赤ワイン、いただきたかったのに」  残念そうに言うはるかに背を向け、村田は蹌踉として玄関に向かった。はるかの軽い靴音が遠ざかっていく。  リビングルームに入って美都ちゃんに「ただいま」と言うと、人形はたちまち生気を帯びて喋り出した。 「ああ勘市さん。お帰りなさい。わたしを抱いてね。抱いてね。可哀想。怖かったのね。怖かったのね。可哀想」 「尻が脊髄《せきずい》の方へ迫《せ》りあがって、うずいているみたいだ」村田は赤ワインを出しながら言った。「胃が重くて、恐怖で下半身がふわふわ浮いている」 「尻が。怖さで。下半身。ああ。下半身。ふわふわ」  雨が降り出していた。宮本はるかはもう家に戻っただろうか、と村田は思った。椅子に掛け、赤ワインをひと口飲み、村田は美都ちゃんを膝に抱いた。 「怖かったのね」 「ああ、怖かったよ。とても怖かった」  あいつらいったい、どんな気でいたんだろう。姥坂市の文化人に激しい反感を抱いているあの出雲という男が真犯人なのだろうか。だが、もし真犯人なら自分の心情をあのように吐露するだろうか。むしろ殺意を隠すためあんなことを人前で喋ったりはしない筈だ。では今日の集りを仕組んだ八杉が犯人か。出雲の友人らしいが、文化人を憎んでいる彼をわざと招いてあのような発言をさせたのか。だが、おれを怖がらせていったいどうなるというのか。自分たちが文化人に恨みを持っていることを参加者に教えるだけではないか。やはり今日の成り行きはまったくの偶然と考えた方がいいのかもしれない。自分たちの、普段からの文化人への憎悪がたまたま噴出することになったのかもしれない。それとて危険であることに変りはないのだが。  村田は、出雲と八杉のふたりが、容疑者と目されている三十五人の中に含まれているのかどうか、明日、すでにそのリストを入手しているかもしれない野口弥五郎老人のところへ訪ねて行くことにした。  書道家は幽霊に怯える  野口邸は姥坂山の東側斜面、切り立った断崖を背にして建つ庄屋造りの日本家屋で、長屋門のくぐり戸を入ると洒落た前栽があり、玄関までの敷石が長い。村田が門のインターホンで名を告げたにかかわらず、玄関にはしばらく誰もあらわれなかった。  やがて板戸が開き、野口弥五郎の憔悴しきった顔があらわれた。村田は驚いた。老人は落ち窪んだ眼を見開いていて、その瞳孔は縮んでいた。村田を見ながら村田を見ていず、強いて言えばその眼はただおのれの中の恐怖だけを見つめていた。 「野口さん。どうしました」村田は思わず悲鳴まじりにそう訊ねた。 「まあ、入れ。入れ」野口はうわずった口調で村田を土間に招じ入れた。  広い板の間の中央には囲炉裏があり、自在鉤《じざいかぎ》を中にしてふたりは向きあった。夫人や女中がいる筈だったが、冷んやりした家の中はしんとしていた。 「わしがあんまり怖がるので、みんな気味悪がって出て行ってしまった」鉄瓶の湯を汲みながら野口は言った。「しかしなあ君、わしゃ本当に幽霊を見たんだ」  村田は一瞬息をのんだ。だが老人の表情にはそれを納得させるものがあった。「信じますよ、野口さん。あなたのそのお顔を見りゃあね」 「わしが幽霊みたいだろ。ひひひひ」野口は淹れた茶を囲炉裏越しに村田に渡した。「あれから恐ろしうて眠れんわい。もうふた晩になる」 「町田美都画伯の幽霊ですか」 「いや。名も知れん男の幽霊だ」野口は語りはじめた。「一昨日の夜十時頃かな。『佃』で飲んで食事して、ぶらぶら帰ってきた。皆に話しとることだが、こんな坂の上に家を建てたのは本来健康のためだ。しかしこの歳になるとさすがにきつい。おまけに酒が入っておるから尚さらで、こりゃあかえって心臓に悪いなんぞと愚痴りながらすぐ下の四つ辻まで来た。そしたら矢萩の屋敷の前、あの赤煉瓦の家の前あたりにそいつが立っておった。黒っぽいくたびれた背広を着てな。そいつがわしの方を向いた。頭が割れて顔に血が流れておった。そいつは恨めしそうにじいっとわしを見た。あの崩壊で建物の下敷きになった税務署員の幽霊に違いないわい。凄い顔だった。わしはただちに腰を抜かした」  村田は嘆息した。「ああ。腰を抜かしましたか」 「よくまあ、心臓麻痺を起さずにすんだものだ。わしの動悸があたりに響き渡ったぞ。そしたら幽霊がゆっくりと二、三歩わしの方へ歩き出したので、わしは地べたに腹ばいになって逃げようとした。立てもせず、声も出せず、地面をがりがり引っ掻いて虫のように這って逃げようとした。しかしまあ悪夢と同じでちっとも前へ進まず、恥かしながらわしは大便をした」 「わかります」村田は沈痛な表情でうなずいた。「恐怖で、人間は大便をします。でも野口さん、幽霊を見たのは、心臓を酷使したせいじゃないんですか」 「そうかもしれんな」野口は案外素直にそう言った。「しばらくして振り返ったら幽霊は消えていた。それ以来一度もあらわれぬところから考えるに、あの時のわしの心臓の具合でああいうものを見たのかも知れん。ご承知のように化け物は場所に居つくが幽霊は場所などお構いなし、恨んでいる者の前に出る。わしを恨んでいるならこの家の中に出たってちっともおかしくはないんだがね」 「しかし、顔見知りでもない税務署員が、なぜ幽霊になって野口さんの前に」村田は首を傾《かし》げた。 「昨夜などはこの家にわしひとりだった。ここへ出てこられたらわしは恐怖で死ぬと覚悟を決めとった。しかし出てこなかった。ようく見ておきなさい。極度の恐怖が長引くとこういう顔になる。ひひひひひ。いつ出るか。いつ出るか。何か見るたびに悲鳴が口をついて出る。どんと音がすりゃわっと言って飛びあがる。そりゃもう、その肉体の反応たるやわれながらおかしいくらいのもんじゃ。ひひひひひひひひひ」充血した狂気の眼で野口老人は虚無の笑いを笑った。 「同情します」村田はうなだれた。人ごとではなかった。 「用件は」野口は正気に戻ろうとするかのように背すじを伸ばした。 「税務署員の遺族の中の、例の容疑者たち、三十五人でしたっけ、あのリストを見せていただきたいんです」 「二十四人に減ったよ」野口は立ちあがり、手帳を持って奥の間から戻ってきた。「その後アリバイが立証されたりして、これだけになった。これを君に見せたことは誰にも言うな」 「誰にも言いません。ぼくにも言わない」  村田は読みにくい書家の毛筆で手帳に書かれたリストを見た。名前だけしか書かれていず、職業も年齢もわからない。だが出雲の名も、八杉の名もそこにはなかった。あとは知らぬ名前ばかりだった。これは本当に警察で作成されたリストなのかと、村田は疑った。老人の妄想によって書かれたものではないのか。 「ちょっと気になった者がふたりほどおりまして」村田は手帳を返した。「でも、その者たちの名前はありませんでした。そのリスト以外の連中は大丈夫なんでしょうね」  以前村田がした同じ質問に対して「確かだろう」と言ったようには、野口は答えなかった。「わしに訊かれてもなあ」と、確信なげに言うのみだった。「まあ、大丈夫なんじゃないかなあ」 「あとの連中には確固としたアリバイがあると」 「甥はそう言っとる」  村田は安心できなかった。たとえ出雲や八杉が犯人でなくても、まだ犯行時のアリバイのない、見知らぬ二十四人の者がこの市にいるのだ。その者と出会っても村田にはわからないのである。  妻は実家に戻り女中は郷里に帰ったと、老人は淋しげに言った。わしにはこの家しかないので、ここにいるしかない。出歩くのが怖く、料理を作る才に乏しいから出前ばかり、こんな鬱陶しいことがいつまで続くのかと、野口は牛の涎《よだれ》の如く愚痴り続けた。  村田は頃あいを見て野口邸を辞した。週刊誌の見開き頁のエッセイを書かなければならなかった。さいわい野口老がうまい料理の出前をする店何軒かを教えてくれたので、当分食事はそれらの店に注文するしかない。野口と同じく、村田もまた外へ食べに出ることを恐れていた。  家に戻ると電話が鳴っていた。名古屋にいる弟が新聞を見て、心配して掛けてきたのだった。両親とは早くに死に別れているので、今、村田の肉親はこの真面目なサラリーマンの弟ひとりだけなのだが、年賀状以外のつきあいはまったくない。  昼食は野口老イチ押しでご推薦の「福田屋」のうなぎ茶漬けを注文した。出前を待ちながら村田はエッセイの構想を練った。書くことはほぼ決まっている。今、彼が最も関心を持つことと言えば「恐怖」以外になく、前回に続き「恐怖」をテーマに書くしかない。  出前がやってきて、その東北弁のひどい出前に教わった通り、村田はうなぎ茶漬けを作った。熱い飯に蒲焼きをのせ、たれを少し加えて煎茶を注ぎ、蓋をして少し蒸せばうなぎ茶漬けの出来あがりである。  腹ごしらえができ、村田はエッセイにとりかかった。  恐怖こそ根源的な本能  恐怖は、その源流を生命の発生にまでたどることのできる生物学的現象だ。どんな下等な動物でも危険を察知することができ、敵に出会えば逃げるように、恐怖ははるか生命の歴史をさかのぼって動物がえんえんと持ち続けてきた感情であって、恐怖を発生させる神経の回路は、進化とともに複雑化し、維持されてきた。高等動物では、それは小脳扁桃という部位にまで発達し、主観的な恐怖の感覚を惹き起す。  そう考えれば、恐怖こそは、性衝動より以前から存在する根源的な本能と言えるのだ。地震雷火事台風、津波猛獣伝染病、死体亡霊|魑魅魍魎《ちみもうりよう》、まだパンツをはいていないサルだった穴居時代の人間にとって怖いものはいっぱいあり、それに比べれば性の欲望なんぞは外敵その他からもたらされる恐怖を日常的な行為に没入することで一時的にでも忘れ、気を休めようとするだけのものに過ぎない。生殖行為とは、死に怯え、死を恐れ、常に死に直面している自身の分身である子孫を残して少しでも安心しようというだけのものだ。  恐怖という本能があるからこそ、地球上の動物|乃至《ないし》人類はここまで生き延びてきたのであって、もしなければ恐怖の所以《ゆえん》である天災や外敵によってたやすく死滅していたであろう。豪胆な者や無謀な者ほど死に至る確率が高いことから考えるならばこれを自然淘汰と見ることができ、恐怖することのできる者、言い換えれば臆病者と言われる者こそが今後も生き延びていくに相応しい知的な人間であり、そうした遺伝子をより高い水準で保持しているに違いないのである。  人間のすべての行動は恐怖によるものである。ものを食うのは逃げる力を蓄えるためであり、家を建てるのは身を護るためであり、大小便をする時に身を隠すのは無防備な姿をさらして襲われやすくなるのを防ぐためであり、娯楽を求め、夜間煌煌と明りを灯して大勢が群れ集い談笑するのは恐怖を忘れようとするためである。  と、いったようなことを面白おかしく六枚ちょっとの分量に書き、週刊誌の担当者にFAXで送ると、執筆に夢中だったためかすでに夕刻になっていて、またしても出前を注文しなければならないほど空腹になっていた。先日来ろくなものを食べていないという思いがあったので、村田は日本料理の「佃」に電話し、無理を言って懐石料理を重箱に詰めて持って来るよう命じた。「越乃寒梅」があったので氷で割って飲みながら夕刊を読んでいると出前が一万二千円の料理を運んできた。たったひとりの豪勢な夕食、これもなかなかいいものだと思いながら美都ちゃんを相手に軽口をたたきながら食べるうち、村田は自分が恐怖を忘れていることに気づいた。今までは物音が聞こえなくなることを恐れてテレビをつけなかったのだが、久しぶりに見ようという気になった。  テーブルの上のリモコンを手にし、リビングの隅のテレビに向けた時だ。二階でどん、という物音がした。誰かが窓框から床に飛び降りたと思えるような大きな音で、わずかに家も揺れ、たちまち村田は凍りついた。物音と同時に身が浮き、どん、と心臓がひとつ大きな音を立て、あとはとんとんとんとんと素早い鼓動に変わり、全身が痺れた。また書庫で積みあげてある本が落ちたのだろうと思うことで安心しようとした。二十秒ほど経ち、少し安心して落ちついた時、今度はぎしっと二階の床が鳴った。  誰かがいることはもう明らかだと思い、村田は叫ぼうとした。大声で誰だと叫ぶことによって二階の人物が逃げてくれるかもしれなかったからだが、声はなかなか出なかった。やっと、なさけないほどの掠れ声が出た。 「誰だ」 「誰だ。誰だ。誰だ」と美都ちゃんも叫ぶ。  その声に励まされ、村田は咽喉《のど》も破れよとばかりに絶叫した。「誰だぁっ」  大きな声が出たのは僥倖《ぎようこう》であった。しかしその声によって聞こえてくる筈の逃げる足音がせず、二階が静かになったことで村田の恐怖は倍加した。立とうとして立てず、村田は椅子ごと床に倒れた。 「誰だ。誰だ。怖いのね。怖いのね」美都ちゃんが騒ぎ立てている。  犯人が階下へ降りてくるのでは。村田は焦った。武器を手にする必要があった。こんなことなら野球のバットでも買って備えておくべきであったと悔みながら流し台へと這い、あたりのものに掴まって立ち、包丁を手にした。ひゅうひゅうと咽喉が鳴った。また、どんと音がし、少し家が揺れ、村田の身が浮いた。来る。降りて来る。村田の全身に顫えがきた。流し台の前に立ち両手で包丁を握って胸の前に差し出したまま彼は顫え続けた。急速に腰が冷えた。胃が重くなり、歯ががちがちがちがちと鳴り続けた。どんな犯人であろうと相手がよほどか弱い女ででもない限り勝てるわけがない、自分は殺されるだろう、と村田は思った。  家の中が静かになり、美都ちゃんも沈黙した。村田は相手の気配を察知しようとして息を殺した。しんとしていた。どこもかも静かだった。一度だけ、遠くで警笛が鳴った。  近くの家の犬が吠えはじめた。夜道を逃げて行く犯人に向かって吠えているのだろうかと思い、村田は少し気をとり直した。だがまだ油断はできなかった。あの犬は他の通行人に向かって吠えているのかもしれない。もちろん二階へ行く勇気など、なかった。村田が上ってくるのを待ち、犯人が書庫の暗闇に潜んでいるかもしれなかった。  緊張で、村田はすっかり疲労した。水道の蛇口に口をつけて水を飲み、崩れるように椅子に掛けた。どうしよう、と村田は考えた。警察に電話しようとすれば、それを察知して犯人が襲いかかってくるかもしれない。何よりも、今は静かなのだ。しばらくこのままでいよう。どうせ自分にろくな行動ができないことはわかっている。少し様子を見るためにじっとしているのだ、という言い訳を自分にして、村田はしばらくじっとしていた。  一時間ほどが経過した。実際には三十分かもしれなかった。そんなに長い間、犯人が闇に潜んでじっとしていられるわけがない。実際、あれ以来何の物音もしない。そう考えて村田は立ちあがった。恐るおそる階段に近づき電灯を点けた。もう一度「誰だ」と叫び、包丁を構えてゆっくりと上った。階段を上りきってから書庫の電灯を点けてまた叫んだ。 「誰だ。出てこい。そこにいるのか。おい。こら。出てこい」彼はわめき散らした。  書棚に入りきらないで積みあげてあった本が何カ所かで崩れていた。窓は閉まっていたが鍵はかかっていず、雨戸も閉まっていたが、やはり閂《かんぬき》はかかっていなかった。長い間閉めたままの窓や雨戸であり、雷雨の時、戸締りを確かめに走りまわった記憶はあったが、あの時は何しろ気が動顛していたから鍵や閂まで確かめたかどうか確信は持てず、誰かが侵入して出ていったのか、本が落ちただけなのかは不明だった。  窓の雨戸とガラス戸を厳重にロックして、村田は階下に戻った。聞いたのが物音だけで盗まれたものもないため、警察には電話しないことにした。しかし村田にとっては激しい恐怖体験だった。もういやだ、と、彼は思った。この家を出よう。ホテルの部屋ならこんな思いをしなくてすむ。そうだ。この町を出よう。なんで今までそれに気づかなかったのか。名古屋の弟のところへ行けば迷惑がかかる。何しろ実直な会社員だものな。東京の、いつも定宿にしている山の上ホテルの部屋を電話で予約して、明日、夜が明けたらこの町を脱出して上京しよう。  しかし村田勘市が姥坂市を脱出する必要など、この時すでになかったのだ。この頃には町田美都殺害事件、南條郁雄殺害事件の容疑者ふたり、即ち姥坂市役所土木課の出雲康紀と、姥坂市立図書館員の八杉保が逮捕され、犯行を自白していたからである。  犯人の一人が告白する  私がいちばん我慢ならなかったのは歪谷幸一の発言でした。「税務署員の死よりも建物の方が惜しまれる」とは何という言い草でしょうか。文学者的な昂ぶったもの言い、自分の主張へのヒステリックなこだわりは、文壇では通用するかもしれませんが、ことは人の死にかかわっていて、百人を越す遺族が読む可能性を持ったメディアでの発言です。彼を殺す、と決めたのはこの時でした。私は許婚者を愛していました。彼女の命は何ものにも替え難いと思っていましたから、あんな古臭い建物のひとつやふたつが何だ、たとえあの建物の百や二百にだって替えられるものではない、そう思い、彼女に代って歪谷に復讐してやると決意したのです。  許婚者を殺された私と同じ怒りに身を顫わせていたのは、父親を亡くしていた市役所土木課の出雲でした。彼とは中学時代からの親友で、なんでも話しあえる仲でした。あの男を殺そう。最初のうち、私は自分の本心を偽って冗談まじりでそう言っていたのですが、話しあっているうちわたしたちは、心底からの自分の憎悪や怨恨を披瀝《ひれき》しはじめ、そのやりとりの中から自然に殺意を増幅させ、それは次第に具体性を帯びはじめ、やがて殺害方法についてこまかいことまで計画するようになりました。いや。歪谷幸一を殺すだけでは駄目だ。建物の保存を最も強く主張した町田美都と南條郁雄も殺すべきだ。いや。成り行きによってはついでのこと、保存に賛成した文化人全員を殺すべきだ。そんなことも話しあいました。最初のうち積極的だったのは私の方でしたが、あとになるほど出雲が過激になっていき、私は彼について行けなくなって、やや消極的になってしまいました。  あいにく歪谷幸一とはふたりともつきあいがありませんでした。しかし出雲は大学時代に南條郁雄から建築美学を学んでおり、私は以前から図書館の催し物などで町田美都とは親しくしていました。犯した罪は歪谷と同等なのだから、とりあえずはこのふたりから復讐していこう、とわたしたちは決めました。私は図書館に飾るための絵を彼女から購入しようとして予算に計上し、それを口実にして彼女に接近していきました。出雲は十年ぶりに恩師を訪ね、仕事の相談を持ちかけるなどし、それ以来たびたび南條の家を訪問するようになりました。南條の家にはメイドが通いでやってくるのですが、出雲は彼女のいない時間を見計らって訪問したため、顔を見られたのは最初の一度だけだったそうです。やがてどちらも相手に警戒されなくなり、お出入り自由となったので、好機とばかり殺害を実行に移すこととなりました。  トリックとしては二人一役ということになるんでしょうか。同一犯人に見せかけるため手口は同じにし、仲間の犯行時間に自分のアリバイを作ればいいと考えたのです。当市の文化人の愛憎関係には詳しくありませんでしたが、どうせどろどろした文化人の間の嫉妬や憎悪や怨恨が存在し、嫌疑は文化人の誰かにかかるだろうなどと高をくくっていました。仮に死んだ税務署員の遺族に警察の眼が向けられたとしても、なにしろ百人を越す容疑者です、自分たちのアリバイさえあればよかろうなどと考えていました。  町田美都殺害の前夜、出雲が南條郁雄のループ・タイの紐を盗んできました。これで町田美都を絞殺し、文化人の間の争いに見せかけて、警察の捜査を混乱させようという狙いでした。次の日の午後三時、私はいつものように図書館の向かいの喫茶店「熊さん」へコーヒーを飲みに行き、いつもより早めに店を出て町田美都の家までやってきました。その時間、出雲は市役所内の会議に出席している筈でした。真昼の住宅街には人通りが少なく、私は誰にも会いませんでした。誰かが二階の窓あたりから見てでもいない限り、誰にも姿を見られていないと思います。町田美都は何の疑いもなく私を玄関に出迎えました。先に書斎へ入ろうとした彼女の首に背後からループ・タイの紐を巻きつけて絞めあげますと、何が起ったのかわからぬままに彼女は一瞬硬直しました。暴れはじめたのはすでに紐が彼女の咽喉に深く食い込んでからでした。マリオネットのようなぎくしゃくした動作でちょっと跳ねて暴れたのち、彼女はすぐにぐったりとし、床に崩折れました。彼女を玄関の間の椅子に掛けさせ、その見開いたままの眼によって死亡を確認し、わたしはすぐにあの家を出ました。人間ってすぐ死ぬんですね。なんと、五分もかからずに殺害できました。「熊さん」を出て図書館に戻るまで、十四、五分でした。  わたしが成功したので、翌日、出雲もさっそく南條郁雄の殺害を実行に移しました。彼は出勤前の八時半に南條の家を訪ねました。南條はその時間いつも朝食をとっていて、出勤途中に立ち寄る出雲はたびたびコーヒーのお相伴にあずかっていたそうです。一方私はその時間、いつものように「熊さん」へ行き、トーストとゆで卵とコーヒーでたった三百八十円というモーニング・セットの朝食をとり、九時に図書館へ出勤して自分のアリバイを作りました。あとで出雲に聞いたところによりますと、南條郁雄もまた何の疑いもなく出雲を自宅に入れ、リビングでコーヒーを飲ませてくれたそうです。椅子に掛けた南條のうしろへ何げなくまわり、市役所の女子職員から盗んだ安物のスカーフを首に巻きつけて絞めあげると、南條は「げこげこ。ぐ」といって非常に臭い屁を放ち、すぐおとなしくなって息絶えたそうです。  連続殺人事件の犯人としてわれわれ遺族に嫌疑がかけられたということは、私の家へ調べにやってきた刑事によって知りました。わたしは南條郁雄殺害時のアリバイが立証されたことによって、町田美都殺害時の十五分間の不在も深く追及されることなく、嫌疑は免れたものと思っていました。出雲のところにも刑事が訪れたそうで、彼もわたし同様、町田美都殺害時のアリバイで嫌疑を免れていると信じていたそうです。事実どこから出てどう流れてきたものなのか、取材に来たマスコミ関係者に見せてもらった容疑者と目されている者のリストの中にわたしたちの名はありませんでした。それでわたしたちは安心し、いよいよ歪谷幸一の殺害計画をあらためて相談しはじめました。  その矢先に、歪谷が自殺してしまったのです。わたしたちは驚き、文化人という人種の神経はなんとひ弱なものであるかと思い、あきれてしまいました。そして、むしろ町田美都や南條郁雄の場合は自分たちがなぜ殺されるのか理解できぬままに死んだわけですが、歪谷は遺族の恨みにさんざん恐怖して死んだのですから、かえって真の復讐になったのではないかとわたしたちは話しあいました。そこで私は、これならばもう直接手を下して彼らを殺すまでもないのではないか、今回のように雷雨などというちょっとした自然現象がきっかけで自滅するのであれば、自分たちはそのちょっとしたきっかけを彼らに与えてやるだけでよいのではないかと考えたのです。出雲も一応はそれに賛成したのですが、文化人の全員がそこまで繊細であるとは考えられないから、やはり相当の衝撃を与えてやるべきだと主張しました。「ちょっとしたきっかけ」といい、「相当の衝撃」といい、それらがどのようなものであるべきかはまだ考えていなかったのですが、すでに文化人三人の死によって彼ら全員が神経衰弱気味になっていることは明らかでした。  最初、どうあっても殺すと決めていた三人が死んでしまったので、その他の文化人に対する私の殺意は急速に萎《な》えました。しかし出雲はまだ復讐を続行するつもりでした。私が熱意を失ったので、ここからはほとんど、出雲だけが行動することになります。このあとのことで私が知っていることは、出雲の口から聞いたことが多くなります。彼もすでに自白したとおっしゃるのであれば、詳しいことはどうぞ彼から直接聞いてください。  もう一人の犯人の告白  もっとも臆病な文化人として、事件後、町の人たちの間では町田美都殺害の第一発見者である村田勘市のことが評判になっていました。腰を抜かしていただの、茫然自失して何も喋れなかっただのと噂されているあのことです。こういう人間ならすぐ神経をやられるか自殺するだろうと思えたので、わたしたちはまず、彼を脅す計画を立てました。単に夜間、彼を道で追うだけで彼は恐怖に狂うだろうと思えたので、それを実行することにしました。しかし文化人三人が死んだことで当初の目的は果したため、八杉保は満足していてまったく協力的ではなくなってしまっていましたし、またさいわいにも私は村田勘市とはまったく面識がなかったので、結局私ひとりで実行することになりました。  私は夜な夜な彼の自宅附近を人に見られぬよう徘徊し、村田の外出を待ち構えていました。なかなか彼と出会ういい機会がなかったのですが、ある夜、どうやら村田の家を訪問するつもりらしい望月源之輔がやってくる姿を見かけました。私はこの望月とも面識はありませんでしたが、タウン誌の「うばさか」で彼の写真を見ていたので顔を知っていたのです。私は急遽、計画を変更してこの男を脅すことにしました。この望月もさほど豪胆には見えず、脅し甲斐がある筈と思えたからです。  彼が私の前を横切ろうとした時、私は身をひそめていた塀の陰から出て街灯の明りに身をさらし、ずかずかと彼に近づいて行きました。望月は私を見て、一瞬、顫えあがるように身をこわばらせて首を高く上へ伸ばしたかと思うと、コンパスみたいにくるっとあちらを向き、脱兎のように走り出して村田の家へ逃げ込みました。私は彼のあとを追って村田の家の門の手前まで走りましたが、そこからすぐに引き返し、家に戻りました。望月が村田の家から警察に電話をするかもしれなかったからです。また望月は村田に、彼の体験した恐怖を大袈裟に語るに違いなく、それなら一度に二人を脅かしたことになる筈だと思って、私は一応の満足をしてもいました。  その後私は、望月を脅した体験から、死んだ税務署員の亡霊に化けて文化人の誰かの前に出現するというアイディアを考えつきました。八杉はこれを馬鹿な着想だと言い、効果に期待が持てないからやめろやめろと言っていたのですが、私はその効果を信じ、やはりひとりで行動しました。幽霊を信じやすいキャラクターとして私が標的にしたのは書家の野口弥五郎でした。老人なら迷信深い筈と思えたからです。私は彼がほとんど毎晩飲みに出かけることを知っていましたので、彼の家の近くで幽霊に変装し、待ち伏せすることにしました。変装は野口の家の坂下にあたる四つ辻に面した矢萩という家の前栽に入ってやりました。変装といっても口紅で顔を塗って血まみれに見せかけただけのものでしたが、街灯の青い光の加減もあったのでしょう、意外なほどの効果がありました。  矢萩邸の前栽で待ち構えるうち、野口弥五郎が少し酔って帰ってきたので、私は俯いて顔をかくしたまま街灯の下まで行って立ち、突然顔をあげ、大きな眼で野口老人を睨みつけました。老人は何も言わずに地べたに尻餅をついて、痴呆化した顔で私を見つめるだけでした。私は野口老人がまったく驚かなかったり、私を幽霊とは思わず、恐れなかった場合には素手で絞め殺してもよいと思っていましたので、ゆっくりと彼の方へ歩き出しました。腰を抜かしている老人は地べたに這いつくばったまま向きを変え、排泄音を立てながら大小便を漏らし、がりがりと地面を引っ掻いて彼方へ逃げようとしました。その時坂下の方から誰かがやってくることに気づき、虫のようにのろのろと地を這いながらちっとも前進しない野口老人をその場に残して、私はすぐに、もとの矢萩邸の前栽へ逃げ込みました。  野口老人の脅えかたがひどかったので、自滅へのきっかけとしての効果はあったと判断できたし、それだけでも報復になったのではないかと私は思います。実際、野口老人はそれ以来外出もせず、家族たちが彼を見離して家を出ていきましたので、ずっとひとりであの家に閉じこもっているそうですから、もしかすると今も、徐徐に、徐徐に気が狂いつつあるのかもしれません。また、野口が洩らした幽霊話は多くの文化人の知るところとなった筈なので、彼らにも何らかの心理的衝撃を与えていると思われます。  さて次には、せっかく臆病者の村田勘市という人物がいるのですから、やはりこういう奴を血まつりにあげなくてはなりません。私は八杉が彼を市立図書館の定例講義に招いていることを知り、その席で脅しつけてやろうと提案しました。八杉は猛反対しました。村田がわれわれを犯人と疑うおそれもあり、何よりも大勢の市民の前で脅したのでは、それが警察の知るところとなって嫌疑がかかるかもしれないと言うのです。私は、多数の人の聞く前で正正堂堂と糾弾することは、逆にわれわれの潔白が証明されるのだと言って彼の反対を退けました。八杉はしぶしぶ、できる限りの協力はするが、お前がやり過ぎていると思った時はいつでも阻止するからと念を押し、私の出席を許しました。  その日、村田が話し終え、質疑応答に移るなり私は立ちあがり、税務署崩落の犠牲者についてどう思っているのかを糺《ただ》しました。あまりに突拍子がないと思ったのか八杉が立って咎《とが》めましたが、私は構わず八杉と言いあう形で文化人たちへの非難を続けました。しかし、こういうことには老獪な村田によって論点を巧みにズらされ、うまく胡麻化されてしまいました。でも村田は相当ショックを受けたようで、私のことが気になるらしく、あとで八杉に何やかやと訊ねている様子でした。もうひと息で村田に大きなダメージを与えることができる、と私は思いました。  集りのあとにいつも主催者たちが講師を接待する慣例を私は知っていましたので、八杉に頼んで同席させてもらうことにしました。関係者の中には私の同席を気にする人もいましたが、私はおかまいなしに「鳳凰吟」という韓国居酒屋までついて行きました。案の定村田は私がいることに驚いた様子でした。私はさっきの無礼を詫びるという口実で彼に話しかけ、彼の前に座り込み、酔ったふりをしてさんざ厭味を述べ立てたのです。うまい具合に、酔った八杉までが許婚者のことを思い出して泣きはじめました。小心な村田はもう恐ろしさに居ても立ってもいられぬ様子で、ついに席を立ちました。充分な効果はあがったと思い、わたしは彼の背中に厭味の追い打ちをかけただけで、それ以上彼を追うことはしませんでした。彼は蹌踉として店を出て行きました。きっといやないやな思いをしたに違いなく、そのいやないやな思いはずっとあとまで続いたに違いありません。  文化人全員を殺せぬままに逮捕されてしまったのは残念ですが、最も憎むべき者を直接間接に三人殺し、また、あと何人かを半狂乱に追いやったことも確かですから、わたしの胸はもう晴れました。司法にどう裁かれても文句はありません。しかもわたしたちの逮捕で、殺人の動機がマスコミによって大きく報道されるに違いありませんから、まだ生き残ってのうのうとしている文化人たちにも、いささかの反省を促すことになるでしょう。わたしは満足です。  おやっ。地震ですね。これだと震度2か3ですね。たいした地震じゃないけど、これでまた心臓をでんぐり返す文化人が何人かいるでしょう。いや。それは確実にいますよ。先日来の騒ぎで連中はもう戦戦恐恐としているんです。ちょっとした恐怖で奴らは発狂に至るんです。もっと天変地異が起ればいい。私が手を下すまでもなく、奴らは全滅だ。あははははははははははは。  姥坂市からは脱出不能  こんな街からは一刻も早く脱出しなければならない。二階の物音に脅えて以後ほとんど眠れなかった村田勘市は翌朝、山の上ホテルに電話をして長期滞在の予約をした。荷造りをし、宅配便を呼ぶ手間と待ち時間を惜しんで肩から提げたショルダーバッグを右手で持ち、ボストンバッグを左手にして朝の十時に家を出た。ワープロなどはホテルの近くの電機屋からレンタルで取り寄せられるので持つ必要はなかったが、着替えや下着や参考資料でぎっしりの荷物は両手に重く、駅へ着いた時村田は汗をかいていた。  姥坂駅の構内には乗降客らしい人の姿はなく、売店も閉まっていて、数人の駅員が所在なさげに佇み、うろついているだけだった。切符売場の窓口も閉まっていた。いやな予感に襲われながら村田は、改札口の近くをうろついていた助役クラスと思える年配の駅員に話しかけた。 「電車、どうなってるの」 「電車、どうなってるの」上の空で鈍重にそうくり返した駅員は、村田の顔を見てぎくりとし、丸めていた背をのばした。「あっ。失礼しました。ちょっとぼんやりしていて。そうなんです。電車は出ません」 「だから、どうしたの」 「ご存じありませんでしたか。トンネルが不通になったんですよ」 「なんでまた、トンネルが」村田は疑わしげに駅員の顎の白い不精髭を見つめた。 「昨日、地震があったでしょう。あれでトンネルの天井からコンクリート片の落下がありまして。たった震度2で天井からコンクリートが落ちるなどあり得ないんだけど、これはまあ、以前から老朽化していた部分にひび割れでも生じていたんでしょう。現在コンクリート片は撤去したのですが、念のためにトンネルの天井を全部点検しておりまして」 「待ちなさい。待ちなさい」村田は大声を出して駅員のことばを遮った。「昨日、地震なんてなかった。なんでそんな、わかりきった嘘をつくんです」 「えっ」駅員はのけぞり気味に村田を見つめた。「だって、あったでしょうが。昨夜の七時三十四分に関東一円、震度1から3の地震があって、姥坂市は震度2でした。あなたはどこにいたんですか」 「家にいた。誓って言うが、そんな地震はなかった」村田の声が顫えた。「口から出まかせを言って、おれをこの街から出さないつもりだな」 「あなた、何を言うておるんですか」真面目そうな駅員は口から少し泡を吹いた。「わたしがあなたを騙してどうする。電車が動かないからこの街を出られないなどと、そんな単純な。タクシーなりなんなり、あるでしょうが」 「タクシーに乗れないほどの貧乏人ではないが」村田は駅員を睨んだままで言った。声が割れていた。「地震はなかった。だからコンクリートの崩壊もなかった。貴様か駅長かのどちらかが、死んだ税務署員の家族なんだろう。電車はわざと動かさないんだ。おれをこの街から出さないつもりでいることは確かなんだから」  駅員はぶるっと顫えた。それから彼方を向き、足早に歩き出した。おれがこの街から脱出しようとしたことをどこかへ報告するつもりらしいと判断し、村田は駅員にとびかかって背後から首を絞めようかとも思ったが、初老とはいえ駅員の方が力は強そうだった。村田も足早に駅舎を出た。  タクシー乗場に、タクシーは一台もいなかった。電車が不通になったのでタクシーが払底しているのだと考えるべきところだろうがそうではあるまい、町中の人間が寄ってたかって、あくまでもおれをこの街から出さないつもりなんだ。村田がそう思った時、一台の空車が戻ってきた。運転手は若い男で鼻下髭と顎髭を生やし、暗い眼をしていた。タクシー乗場に横づけされ、後部ドアが開かれたその車に近づこうとした時、運転手は村田を見てにやりと笑った。たちまち村田はその場に凍りついた。この男も税務署員の遺族のひとりだ。この街を出ようとするおれを拉致《らち》していって、どこかへ閉じ込めるか殺害するつもりらしい。誰がこんな車に乗るものか。 「乗らないの」と、運転手が苛立った声で訊ねた。  他に街を出る手段はない。家に戻り、立て籠もっているしかなさそうだ。村田は運転手を睨みつけてから、かぶりを振り、駅舎を離れた。  坂道をわが家へ引き返す途中、風が巻いたために自分の体臭が臭った。長いこと風呂に入っていないことを村田は思い出した。侵入者を警戒するあまり、浴室にこもって無防備になることを恐れたためだった。髪も、もう一週間洗っていない。自分では気づかなかったが、周囲の人は迷惑だったろうと思い、家に戻るなりただちに入浴しようと決めた。風が、駅員との問答で熱くなっている頭を少し冷してくれた。  自宅へ戻り、リビングに入ると、美都ちゃんが「お帰り。お帰り」と言った。村田はやっと落ちついた。 「ああ。ただいま。この街から出してもらえないんだよ。しかたないさ」 「この街から。どうして。どうして」 「地震があって、トンネルのコンクリートが落ちたんだってさ」 「地震。ああ。地震」 「地震の起った時間は、ええと、七時三十何分と言ったかな」  村田は突然、駅員が言ったその時刻は、他ならぬ、自分が二階の物音に脅えていたあの時間であったことに気づいた。地震は本当にあったのではあるまいか。そういえば最初の物音の時、からだが浮いたように思えたが、あれは恐怖でとびあがったのではなく、地震による突きあげだったのでは。本が落ちたのも家が揺れたのも、地震のせいだったと言えなくはない。新聞を読み返せば、姥坂市に震度2の地震があったのは確かに七時三十四分であり、自分がテレビのスイッチをいれようとしたのもその時間であった。誰かが新聞の記事まで差し替えたとは思えないので、村田は自分の早合点を認めるしかなかった。駅員は正しかったのだ。  さっきはなぜあんなに錯乱したのだろう。村田は自分の被害妄想による狂態をちょっと恥じた。しかし街を脱出しようという決意をあらためる気はまったくない。トンネルの点検が終了する予定時間を聞かなかったが、しばらく自宅で待機してから電話で訊くことにしようと思い、とりあえずそれまでに入浴しておくことにした。  浴槽に浸ると、急に眠気が兆した。昨夜は眠れなかったし、それ以前からそもそも睡眠不足だったのだ。ここで眠ってはいかんと思いながら、うとうとし、また眼を見開き、またうとうとした。あっ。無防備だぞ。風呂に入っているんだぞ。誰か来たらどうする。おまけに浴槽の中で熟睡してしまったらえらいことだぞ。眠ってはいかん。眠ってはいかんのだ。  風呂場のガラス戸が音もなく開き、瑠美子が裸体で入ってきた。「あなた」「あなた」「一緒に」「一緒に入っても」「入ってもいいでしょう」「いいでしょう」  返事する間もなく、瑠美子は村田と肌をこすりあわせ、一緒に浴槽に浸っている。まずい、と、思った時、すでに目の前には串田左近と望月源之輔が笑って立ち、ふたりを睨《ね》めまわしていた。彼らは水の中にいるような、よく聞き取れない声でものを言うが、何を言っているかは村田にはよくわかるのだ。 「私の妻と一緒に、風呂に入らないでください」 「やっぱりそうだったんじゃないか」 「違う」と叫んで村田は眼を醒ました。覚醒してもまだ、彼らが出現したことへの恐怖が残っていて、彼はたとえ夢の中にであっても出現してこないでほしいという意味で「やめてくれ。やめてくれ」と身もだえながら叫び続ける。  ガラス戸が開いたままの洗い場へ、美都ちゃんが両手を前に差し出し、まん丸の眼で村田を見つめながら入ってきた。「怖いのね。怖いのね」  村田は遠吠えのような悲鳴をあげた。遠吠えが弱よわしいヨーデルに変り、次いで彼は爆笑した。いつまでもいつまでも、彼は笑い続けた。  その後誰がどうしたか  村田勘市は、全裸のままリビングで仰向けに引っくり返り、笑い続けているところを隣人に発見された。彼の気ちがいじみた連続的な爆笑は隣家にまで届いたのだ。村田は正気を失っていて、傍らにはドレスをボロ布になるまで引き裂いた美都ちゃん人形が転がっていた。運び込まれた市内の神経内科病院で診察を受け、発狂は一過性の心因反応であり、急性の神経症による錯乱及び退行であると診断されたあと、彼は東京都内の大学病院に移された。  望月源之輔や串田夫妻や宮本はるかが見舞いに行っても、村田にはながい間彼らが誰だかわからなかった。徐徐に正気を取り戻しはじめてからも錯乱中の記憶は完全に欠落していた。連続殺人犯が逮捕されたと教えられても「気休めだろう」といってなかなか信じようとしなかったのだが、八杉保と出雲康紀の刑事裁判が行われることを新聞で読んで、彼はやっと恐怖症から脱け出した。発狂後三カ月と二週間のち、彼はやっと退院して自宅に戻った。  帰宅してすぐ、村田は多忙になった。中断されていた連載が再開された他にも、書きかけの書き下ろし長篇を仕上げなければならなかったし、事件のいきさつを長篇のノンフィクションとして書いてくれという依頼もあったからだ。村田の発狂を面白おかしく書いた週刊誌などへの報復的な意図もあり、彼はこの仕事を引き受けた。病後の村田の書くものにはなんとなく危険な迫力、危うい気分が感じられ、攻撃的な毒のある描写に満ちていたので、書き下ろし長扁は小説もノンフィクションも共によく売れ、二年後、彼の最新短扁集は有名なふたつの文学賞を得た。  忙しくなった村田の面倒は、宮本はるかと瑠美子が交代で見た。競争のように彼女たちが村田の家へやってくる日が続いた。友人だった筈の彼女たちは不仲になった。やがて瑠美子は串田左近と離婚した。しかし村田は遠まわしに復縁を迫る離婚後の瑠美子を家に入れず、退院して一年半後に宮本はるかと結婚した。瑠美子は埼玉県の実家に戻り、家業の酒屋を発展的に解消させたスーパーを手伝っている。その後村田は古い家を壊し、はるかと金を出しあって同じ場所にコンクリート三階建ての豪邸を建てた。  串田左近は瑠美子に去られてから酒を飲むようになり、急性アルコール中毒で三、四度救急病院に運ばれてから、本格的なアルコール中毒患者となった。やがてそれによって細ぼそと食いつないでいた小さな下請け仕事も来なくなり廃人同様になって、離婚六年後、銀行からの多額の借金をそのままにして行方をくらました。  八杉保と出雲康紀は第一審でそれぞれ懲役十五年の刑となったが、どちらも上訴せず、刑に服した。村田も会ったことのあるあの無表情で小肥りの刑事は、この事件解決の功績が認められて昇進した。  望月源之輔は東京都内の二つの大学で教えなければならなくなったため、家族とともに都心のマンションに引っ越した。大学のひとつでは教授として迎えられ、のちにこの大学の文学部長となる。  野口弥五郎は一時、恐怖による精神障害でおかしくなっていたものの、事件解決後、家族が戻ってくると同時に正気に返った。しかし進行しはじめていた老人性鬱病はそのまま治ることがなく、事件後四年目のある夜、何かに驚くことがあって便所で倒れ、心臓発作によって死亡した。それ以外にも日本画家の彩月花鳥ほか三人の文化人が神経症や神経衰弱に罹患した。  姥坂市在住の文化人の多くが死んだり発狂したり引っ越したりした上、残りの文化人もマスコミから税務署崩落による署員死亡の責任をあらためて追及されたりしたため、事件解決直後から文化振興委員会の活動は停滞し、真木継雄と加寿子の夫婦も以前のように躍如たる働きができなくなってしまった。その後真木は市の予算を得て、若い人たちに演劇を教え、彼らの演劇活動を援助するというプロジェクトに妻ともども力を注いでいる。  あの脳障害の刑事はその後やたらに怒りっぽくなり、上司の首を絞めるなどした上、仕事も出鱈目さが目立つようになったため免職となり、以後は姥坂市内のスーパーで警備員となって、万引きを見つけてはこれを痛めつけることに生き甲斐を見出している。  姥坂市のセクハラ市長は事件のおかげでセクハラ問題がうやむやになり、以後、市長を二期つとめた。その間、新たなセクハラ問題を起すことはなかった。  村田は一度だけ、喫茶店であの「薔薇の乙女」に逢った。村田もひとり、彼女もひとりだった。薔薇の乙女はすでに臙脂色のスーツを着こなした楚楚たる美女に変貌していた。村田は彼女の前に立ち、以前の無礼を詫びて言った。「あの時は、事件のさなかで、気が変になっていましたので」 「知っています」彼女は村田の入院を知っていた。「再婚なさったのね」 「はい」  彼女はしばらく無言だった。やがて、前に立ったまま自分を見守り続ける村田に、涙でうるんでいるように見える眼を向けた。「わたし、先生が好きだったのに」  しまった、と、村田は思った。だが、この上、はるかと離婚することなどは思いも寄らないことであった。 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 初出 「文學界」平成十二年五月号から九月号まで連載 単行本 平成十三年一月 文藝春秋刊